とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

「アサヒビアリー」ビールとノンアルコールビールのはざま

電車の中吊り広告を見て、これはと思った。目に飛び込んできたのは「ビアリー」という新商品の広告で「微アルコール」を謳っている。アルコール度数0.5%はビールのちょうど10分の1ほど。ビールという英単語「Beer」の語尾に「y」がくっ付いた商品名に「ビールっぽい」というニュアンスを感じる。さすがビール業界のリーディングカンパニー。面白いことを考え出すなあと思う。

さっそく試してみたいと思って近所のスーパーを探したものの、この日は結局見つからなかった。仕方ないので今日はひとまずお預けと思い、ビアリーのウェブサイトをチェックしてみる。ノンアルコールビールが市民権を得てだいぶ時間が経つが、ウェブサイトの説明によるとビアリーはれっきとしたビールの仲間と言えそうだ(写真①)。これは単にわずかとはいえアルコールが入っているからというだけでなく、製法が基本的にビールと同じだからだ。

ホップなど100%ビール由来の原料を使用し醸造した香り豊かなビールから、アルコール分のみをできるだけ取り除く「脱アルコール」製法により作られています。*1

 

 

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写真① アルコール分、製法で分けるとビアリーはビールの仲間

かねてから健康のためにビールをノンアルコールに(時々は)切り替えていたものの、やはりノンアルはまったく別物だと感じていた。そういう身にとって「微アルコール」のビアリーには期待が持てそう。

さて、翌日もまたスーパーへ足を運ぶと今度は「新発売」のポップと一緒に商品棚の大きな空間を占めて並んでいた。ひょっとしたら昨日は見落としていただけなのかもしれない。そう感じるほど周りに溶け込んでいた。さっそく購入する。

実物を見て気づいたのだが、缶には「名称 炭酸飲料」と書かれている。アルコール度数が1%未満の飲み物は酒税法でいう酒類(お酒)に当てはまらないことが理由だ。果汁5%未満のジュースが無果汁と表示しているのと似ている。ともあれ「お酒か否か」で区分するとビアリーはビールではなくノンアルコールビールの仲間と言える(写真②)。

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写真② 酒税法はビアリーをノンアルと同等に位置づける

さて実際に飲んでみての感想は……、ノンアルコールビールと同じだ。ビールではない。「度数の低いビール」を想像して飲むと随分と肩すかしを食う。個人的にノンアルビールには独特の酸味を感じるのだが、ビアリーにもまさに同じ味を覚える。製法よりも酒税法が仕分けの物差しとして適切ということか。写真で言えば①ではなく②のグループ分けがしっくりくる。価格がノンアルコールビールよりも本物ビールに近いことを思うと、今後はあまり買わないかもしれない。

やや残念に思ったものの味覚や嗜好は人それぞれ。わずかであってもアルコールが含まれているので、ノンアルコールビールをまったく物足りないと思う人には試す価値があるはず。不幸にもビアリーは僕に合わなかったけれど何より新しい商品を生み出す企業力には恐れ入った。次は何を出してくるかなと期待しつつ新しい発想の商品を楽しみに待とう。

スーパーキャッシュを知っていますか?

銀行口座を整理しようと思い、しばらく使っていない三菱UFJ銀行の口座を解約してきた。この口座を開設したのは大学3年の春なので実に20年間お世話になったことになる。ただし開設した当時の銀行は三和銀行だった。なぜ20年以上も前のことを覚えているのかというと、1999(平成11)年4月14日に始まった電子マネー「スーパーキャッシュ」共同実験に参加するために開いたのがこの口座だからだ。*1

ある日、ゼミのメンバーの1人が「スーパーキャッシュ共同実験」についての記事を見つけてきた。インターネットを介して「電子マネー」を「チャージ」できる。「バーチャル店舗」で「ディジタルコンテンツ」などの買ったり、「ICチップ」搭載のキャッシュカードを使って「リアル店舗」でも買い物できる。実験期間はおよそ1年間。記事の内容はほとんど理解できず頭がくらくらした。電子マネーという言葉も聞いたことがなかった。当時はもちろんSuicaなど存在せず鉄道定期券はすべて薄っぺらい磁気カード。今でも電子マネーの本質を理解しているかどうか心許ないが、当時は本質どころか「なんか凄そう」という印象があっただけだった。今から振り返ると「バーチャル店舗」という表現に隔世の感があるが、電子マネーという響きに当時は近未来を感じた。

ともあれ、せっかくだからみんなで参加してみようという話になった。「じゃあ各自、今月中に実験参加銀行のどれかで口座開設しておくこと」ひょっとしたら誰かと一緒に口座を開きに行ったのかもしれないけれど、覚えてない。僕が選んだのは三和銀行だった。

スーパーキャッシュをあらかじめチャージしたキャッシュカードを財布に忍ばせて、何度かみんなで新宿にご飯を食べに行った。電子マネーが使えるお店は新宿エリアに限定されていたからだ。大型商業施設を別にすると約1000店舗あるはずのリアル加盟店はなかなか見つからず、いざ見つかっても支払いの段になって「スーパーキャッシュ?何ですか、それ」と不審な表情でお店の人に訊き返されたりする。あたかも「こども銀行」と書かれたお札で支払おうとする人を見とがめるかのように。レジ横には「スーパーキャッシュ加盟店」というシールが貼られているのに……。スーパーキャッシュを「知っている」別の人が対応してくれてようやくほっとする。スーパーキャッシュは使うのに緊張感を伴う電子マネーだった。

うろ覚えなのだが、オンライン店舗での買い物は一度も経験しなかったと思う。いや、何度か試みて、結局うまくいかなかったのかもしれない。専用の「カードリーダー」端末にキャッシュカードを差し込んで使う方式だったように記憶している。インターネットで当時の記事を検索するとカードリーダーの写真も見つかるのだが、「そう、これこれ」と手を打つのではなく「あれ、こんなんだったかな……」と首を傾げてしまう。

結局、夏前にはスーパーキャッシュを使うのをやめてしまった。例の「緊張感」を別にしても、現金やクレジットカードでの支払いと比べて手間がかかったし、何より飽きた。ゼミのメンバー内でもその後、スーパーキャッシュが話題に上ることはなかったように思う。だから翌年になって「実験終了のお知らせ」か何かを受け取った時も「ああ、そういうのあったな」という程度の感想しかなかった。再び電子マネーを利用し始めたのはその翌年か翌々年、JR東日本のSuicaを手に入れてからのこと。もっともSuicaは銀行口座と連動しているわけでもなければ、何か買い物ができるわけでもなかったけれど。

今では電子マネーを「何か得体の知れないもの」と感じる人は少ないだろう。スーパーキャッシュ共同実験を積極的に推し進めてきた人たちにとって今の社会は想像していた通りなのか、それとも想像以上のものか。

*1:実験概要を示すウェブサイトは今でも見ることができる。

オンラインでアートを買う!オークションを利用する3つの方法

絵でも見たいなと思って足を運ぶのは美術館でなくて百貨店のアートブースが多い。なぜかと言うと自分の気に入った作品を買えるから。もちろん財務省(財布)とご相談しての話。美術館で巨匠の名品をじっくりと鑑賞するのは間違いなく心の洗濯になる。でも値札と見比べながらアート作品を眺めるのは格別に楽しい。

言うまでもなく値札の付いたアート作品を見られるのは百貨店に限らない。例えば画廊、ギャラリーはアート作品を売る所なので、当然どの作品にも値段が付いている。もっとも尋ねるまではベールに包まれたままかもしれないけれど。こんな時、値段を尋ねたら買わないといけないんじゃないかという不合理な恐怖感がプレッシャーとなって、結局訊けず仕舞いということもしばしばある。そしてギャラリーに足を踏み入れる前からその恐怖感を合理的に予想して、せっかく来たのに入り口で回れ右ということも珍しくない(店構えで決まる。中が見えないとびびる)。

もう一つの代表格がオークション。実際に参加したことはなくてもテレビやオンラインの動画で様子を見たことがある人は多いだろう。これも会場に足を運ぶとなるとやや腰が引けてしまうかもしれないが、今はオークションのオンライン化が進み、オンラインで入札に参加できるオークションも多い。これならだいぶ気軽だ。

ところで「オークションのオンライン化」と言われると、ヤフオク!などのいわゆるオンラインオークションを思い浮かべるかもしれない。実際にはオンラインで参加できるオークションには色んな種類がある。これはオークションへの参加方法や入札の仕方が運営会社ごとに異なるという意味ではなく、まったく別物と考えられるオークションの種類が少なくとも3つあるという意味だ。具体的には

  1. オンラインだけで品物が取引されるオークションサイト(ヤフオク!など)。いわゆるオンラインオークション。
  2. 「オフライン」でオークションを運営する会社が提供するオンラインオークションのサービス(サザビーズのオンライン・オンリー・オークションなど)
  3. リアルタイムでオンライン入札が可能な「オフライン」のオークション(国内外のオークション会社)

順番に見ていこう。

文脈を抜きにしてオンラインオークションという言葉から真っ先に思い浮かぶのはヤフーやイーベイ(eBay)が運営するオークションサイトだろう(①)。国内のオンラインオークションはヤフオク!の独壇場である(が、フリマという強力なライバルがいてEコマース市場の中では近年押され気味のようだ)。ヤフオク!にも「アート」というカテゴリがあって、実際にあふれんばかりのアート作品が出品されている。ぱっと見た限り、売りに出されている価格帯はさほど高くない。例えば100万円以上の高額商品はあまり見あたらないし、出品されていても落札されることはほとんどないのじゃないかという印象がある。

個人的にもよほど自分がよく知っている作品じゃない限り、ヤフオク!でアートを買おうとは思わない。特に高いお金を払って買うのにはためらいがある。根本にあるのは取引にまつわる不安感だ。偽物だったらどうしよう、疵などがあったらどうしよう、作品が送られてこなかったらどうしよう、などなど。取引の匿名性も不安を高める。

ヤフーは売り手と買い手を結びつけて取引の場(プラットフォーム)を提供するが、成立した取引そのものに対しては基本的に関与しない。Q&Aで実際に「成立した取引についてヤフーはいっさい責任を負いません」と明言している。買い手の立場からすると何かトラブるが生じた際にどこにも問題を持ち込めないという懸念がある。公平のために言っておくと、個人的にいままでヤフオク!で700回くらい売ったり買ったりしてきた中でトラブルが起きたことは一度もない。商品説明にはなかった疵や汚れが品物に付いていたり、あるいは自分が売った品物に首を傾げたくなるクレームが付いたこともあったけれど、メッセージやお金のやりとりでいずれもすぐに解決した。取引結果を星の数で評価するフィードバック制度や買い手が品物を受け取るまで売り手に入金されないといった、「ずる」を防ぐための仕組みがヤフオク!には備わっていてそれらはうまく機能しているように見える。それでもやっぱりアート作品、特に高額のアート作品を購入するのには二の足を踏んでしまう。

サザビーズが運営するオンライン・オンリー・オークション(②)はカテゴリとしては①と同じオンラインオークションに含まれる。つまりここではサザビーズがアート作品を売買するプラットフォームを提供しているということだ。けれども①との大きな違いがある。それは、サザビーズが美術品を扱う専門家集団で(ワインもアートに含めることにしよう)、真贋を来歴まで含めて鑑定しているという点だ。もちろん作品の状態も入念にチェックする。そのうえでサイトに掲載する写真や説明文を専門のスタッフが準備してくれる。つまり単に場所を貸しているだけではなく、もっと行き届いた専門的なサービスを提供しているのだ。それでもやっぱりオンラインはオンライン、実物を事前にじっくりと見ることもできないし、会場で感じて得られる熱気や「情報」がここには欠けている。クリスティーズジャパン社長の山口桂氏が「また50億の作品は、流石にオンラインオンリー(会場でのオークションがないセール)では売れません。」と言うのも頷ける(「クリスティーズジャパン社長・山口桂に聞くアートマーケットの現状と課題」『美術手帖』2020年3月1日インタビュー)。


最後はいわゆるオークションのオンライン化、「オフライン」の会場で開催されているオークションにネット経由で入札できるというスタイルだ(③)。国内外の多くのオークション会社が開催するセールでこの入札方式が可能となっている。インターネットのおかげで生まれた入札方式に見えるし文字どおりの意味では実際に正しいのだが、会場に足を運べない買い手が電話で入札したり、競売人や競売会社の担当者に入札限度額を伝えておいて代わりに競ってもらう委託入札という方法は昔から存在していた。特に電話入札はセールの進行状況がリアルタイムで分かるので、ネット入札とほとんど変わらないと言えるかもしれない(もちろんセールのネット配信ができる時代であることを思えば、優位さで電話入札がネット入札に及ばないことは認めるにやぶさかではない)。原型が昔からあったとは言え、オンライン入札対応という意味のオンライン化がオークション市場を盛り上げているのは間違いないようだ。『東洋経済』2021年2月20日号の特集記事では世界の大手オークション会社の下期の売上高を押し上げた要因としてオンライン化があると分析している(「7兆円アート市場の狂騒」)。

ともあれ、オンラインで参加できるオークションが増えてアート作品を買うための敷居が下がってきたのは事実だ。この機会にぜひアートを観る楽しみにアートを買う楽しみを加えてみるなんてどうだろうか。

結城紬生産と家族構造の関係:湯澤規子『在来産業と家族の地域史』(古今書院)

着物を好きになって色々と調べていると気になるのが「結城紬」。結城市茨城県)と小山市(栃木県)で織られる伝統的な絹織物で、伝統的な生産技術は国の重要無形文化財に指定されている。月並みな感想なのだが実際に着てみるとまずは軽さに驚く。そして暖かい。確かに着心地の良さは抜群で「最後に行き着くのは結城紬」と言う人もいる。

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結城紬大島紬の羽織。結城紬はとにかく軽い

そんな結城紬生産現場を「ライフヒストリー」によって読み解こうとしたのが湯澤規子による『在来産業と家族の地域史』(古今書院、2009年)。この記事では本書の内容を紹介する。

結城紬は昔から特産品(ブランド品)だった。早くも1638年には『毛吹草』で下総土産として結城紬が登場し、1700年頃に全盛を極めたらしい。第2章で著者は結城紬の生産体制が時代とともにどう変わっていったのかを、『結城市史』などの資料を使って概観している。結城地方では文政年間に導入された「高機」がさほど普及せず、「居利機」を用いて紬を織り続けた。また明治期以降も「小規模な農工未分離の農村家内工業」が続いた。これらは結城地方の大きな特徴である。日露戦争期の不況にあっても紬生産は「旧来どおり複合的な生業」の1つであり、地域は「優れた技能を高めることに専念し、生産量は増やさず、高価な紬を生産する」指針を取った。第2次世界大戦後、1956年に国の重要無形文化財として指定されると結城紬の需要は急え、また高級化が進んだ。年間3万反という生産量が維持できた背景には専業機屋の存在が大きい。家族内で「下拵え」「絣括り」ができなくても「貸機」として紬を生産できる。しかし1983年に織り手が減少傾向に転じ、それに連れて生産単数も減少していく。

そんな結城紬は小規模な家族生産に支えられてきた。そこで本書は紬生産における「家族の役割」に注目する。著者が明らかにしたのは、家族構成が結城紬生産に影響を及ぼすという事実である。家族の役割に注目したことが本書の特徴の1つと言える。地理学の分野では「個人・家族」と「産業・地域」の相互関係を解明した研究が多くないく、既存研究では家族内分業の実体が詳細に検討されてこなかったという(6-10頁)。既存研究は「紬生産が農業の副業であること」を強調することが多く、そのため従来から紬生産と農業構造との関連に研究が集中していた。

また資料収集や聞き取り調査を行ない、地理学では珍しい「ライフヒストリーの収集・分析」を研究手法として採用したことは本書のもう1つの大きな特徴だ。この手法は「地域に暮らす一人ひとりの人間像やその暮らしのあり方を地域の問題として捉え直してみたい」(10頁)という著者の目的意識に合致したのだろう。

本書で著者が明らかにした内容は大きく3点あると思う。①複合的な生業の一環として、紬生産は必ずしも零細農家の副業ではなかった。②柔軟性のある家族内分業が紬生産(織り)を可能にした。また分業の柔軟性が生産形態の決め手だった。③高度経済成長期に崩れ始めた生産システムの崩壊が1980年以降の産地衰退につながった。以下で詳しく見ていこう。

鬼怒川流域の結城紬生産地域は農業基盤が脆弱で、零細農家が収入を補うために紬生産を副業としていた。これが先行研究による見方だったという。しかし第3章で論じるように、著者によればこの見方は正しくない。例えば旧絹村では昭和期戦前において平均以上の農業生産性を持ちながらも、紬は主要産品の1つだった。この地域の人びとは農業を含む多種多様な生業を組み合わせて生計を立てており、こうした生業の中で時間や労働力を融通し合えることが重要だった。紬生産はその条件に適する生業の1つだった。

40以上の工程を経て織り上がるといわれる絣紬。紬生産は関連業者(機屋、原料商、染色業、撚糸業、整理業など)の分業で成り立っている。生産機能と問屋機能はそれぞれ農村と市街地に多く、結城紬生産は「都市と農村間の連携によって成立している」。「機屋は農家に多い」という従来からの指摘は不正確で、縞屋(買継問屋)を除く関連業者はどれも複合的な生業によって生計を立てていたし、また生業は農業に限らないと著者は指摘する。この背景には地域の歴史的な経緯がある。鬼怒川水運が衰退する前から人びとは多様な生業を組み合わせて生計を立てていた。複合的な生業構造の中で紬生産が展開していったと著者は論じる(89頁)。

紬生産が家族労働力に依存していることは先行研究でも指摘されていた。本書が明らかにしたのは、紬生産が家族労働力に「どのように」依存しているのかである。紬生産では男性が絣括り、(若年・中年)女性が織り、高齢女性が下拵えを担当する。紬織りを専業機屋と賃機のどちらで行なうのかは、家族内に絣括り・下拵えを担えるメンバーがいるかどうかによって決まった。他方で織り手の作業効率を優先し、家事労働は年齢性別によらず他の家族メンバーが分担した。家族内分業が可能かどうかは紬生産にとって決定的に重要だった(機屋意外の関連業者でも同様)。また家族労働力構成や生業の種類が生産される紬の種類や絣柄を決める要因ともなった。こうした「地域分化」を調整する縞屋の役割が重要だった。

結城紬の生産量が減少し始めたのは1980年である。しかし本書は、それに先立つ高度経済成長期には「生産システム」が徐々に崩壊し始めていたことをライフヒストリー分析によって明らかにした。著者は3つの変化を挙げている。①家計に占める紬織りの重要性が低下して、もはや生業の1つではなくなった。例えば夫が会社勤めで得る給与が主要な生計手段となり、紬織りは「内職的」「パート的」なものへと変わった。②家族内分業が成り立たなくなった。核家族世帯で家事・育児と紬織りを妻が1人で両立することは難しい。③専業的・継続的に従事する人が減り、紬生産の維持・継承ができなくなってきた。「住み込み」による技能継承が崩れ、徒弟制度が維持できないために熟練した技能保持者が再生産されない(185ー187頁)。織り手が高齢化し、かつ減少した。もちろん①~③はすべて相互に関連している。

既存研究が生産地域の存立基盤に影響を及ぼす要因として外部的要因(景気変動、需要変化など)を強調するのに対し、本書は地域や家族の内部的要因の重要性を指摘した(217頁)。

本書は在来産業における家族の役割を論じた研究書としてだけでなく、ライフヒストリーに含まれた貴重な資料として非常に興味深い。結城紬生産の衰退・減少の「内部的(ミクロ)要因」として説得力のある説明を提示している。また、戦時統制や不景気などの外部条件よりも、織子の不足という内部条件が機屋の経営存続を決定づけていたという事実も個人的には意外な発見だった(144頁)。全体として産業分析研究の良書だと思う。

最後に本書の分析が不明瞭と感じる点を挙げておこう。家族内分業に注目する本書は、高度経済成長期に生じた紬生産システムの崩壊を明らかにした。ライフヒストリーを分析した第5章で著者は、家族内分業が失われるなかで賃機が機能しなくなっていくメカニズムをはっきりと提示している。他方で専業機屋における家族内分業の変化とシステム崩壊との関係があまり明瞭に示されていないと感じる。例えば氏家家の事例を通じて著者は、生業に占める紬生産の比重を高め、兼業機屋から専業機屋へと経営形態を変えることで「紬生産に関わる家族内分業の伸縮自在な柔軟性は失われ」たと指摘する(162頁)。しかしこの変化が最終的な結城紬生産の衰退・減少にどう影響するのかははっきりしない(技術継承についての分析は明瞭)。また、「絣括り」のできるメンバーが家族内にいるかどうかが専業機屋としてやっていけるかどうかの決め手だという(比較的明らかな)点をのぞくと、「経営形態の変化に影響を与える諸条件を具体的に考察する」(115頁)ことにはあまり成功していないように見える。

ヤドカリたちの住宅難

小学生の頃、ヤドカリを「ヤドカニ」だと思っていた。漢字でどう書くかなどまったく意識していなかったけれど、たぶん頭には「宿蟹」があったのだろう。エビやカニと同じ十脚目の生き物なので、まったくの的外れというわけでもないかもしれない。もっともいま思うとたぶんザリガニと混同していたのだろう。理由はよく分からないが当時、うちの小学校ではザリガニを飼うのが流行っていた。近所の排水溝で誰かが採ってきたザリガニが小学校の中庭にあった洗い場へ放してあった。休み時間にみんなでザリガニを見に行って餌をやったり(何を与えていたのかまったく覚えていないけれど)ホースで水をかけたりしていた。これを飼っていたと呼んでよいかどうかは微妙かもしれない。

小学生の思い出が急に頭に浮かんだのはヤドカリについて興味深いニュース記事を読んだからだ。2020年は世間の話題をコロナウイルスがさらった1年だったが、その影響はヤドカリにも及んだらしい(「「宿なし」ヤドカリを助けて!タイ国立公園が貝殻の寄付呼び掛け」AFPBBNews2020年11月9日)。

www.afpbb.com

2020年、世界中のいたる所から観光客が姿を消したのは知ってのとおり。タイ南部にあるランタ諸島国立公園も例外ではない。そして観光客の激減を埋め合わすように同公園ではヤドカリの生息数が急増したのだという。この因果関係が素人目には分からないのだが、海洋生物学者の目には観光客減が一因と映るらしい。

原因はなんであれヤドカリたちが突然の住宅難に見舞われることになったのは事実。ヤドカリは成長して体が大きくなるとより大きな貝殻を見つけて引っ越すのだが、それらの貝殻は死んだ貝が残したものだ。貝の生息数が増えなければ貝殻の数は変わらない。つまりヤドカリが増えただけ貝殻は不足する。ヤドカリの体は柔らかく、自分を守ってくれる貝殻がなければ生きていけない。そんな住宅難で彼らが選んだ道は貝殻の代わりに空き缶のふたやガラス瓶などを宿にすること。なんとも強かなものだと関心する。

普段は空き缶を選ばないのだからヤドカリにとっては貝殻が望ましいのは間違いない。けれどもガラス瓶を背負う生活がヤドカリにとってどれほど都合の悪いことなのか、これは記事に言及がないので分からない。巻貝特有の螺旋がヤドカリには心地よいのかもしれない。さて国立公園当局が「ヤドカリのため円すい形の貝殻を公園事務局に送ってほしい」と人々に呼びかけるとタイ各地から200kgの貝殻が集まった。日常生活で不自由を強いられているはずの状況でヤドカリのために行動する人びとがたくさんいるとはなんとも驚きだ。仏教の教えが人口に膾炙するタイならではなのかもしれない。2021年はコロナ禍が収束してヤドカリにも日常生活が戻ることを祈りたい。

トマス・モア(平井正穂)『ユートピア』岩波文庫

ユートピア」という言葉は、「空想上の」あるいは「理想的な」という意味で使うことが多いだろう。トマス・モアの造語であるユートピアギリシア語で「どこにも無い」を意味する。表題の『ユートピア』はどこにも無い国なのである。

ユートピア (岩波文庫 赤202-1)

ユートピア (岩波文庫 赤202-1)

ユートピア』はユートピア国に滞在したラファエル・ヒロスデイが語った見聞をモアが記録したという体裁をとっている。この本の中でモアは共産主義国家であるユートピアを理想国家として描いた。ユートピア国の特徴は様々だが、必要十分な少数の法律を人々が忠実に順守していることや、人々が貨幣をまったく用いずに社会生活を営んでいることはユートピア国に特有な特徴だろう。法制度、例えば刑罰の重さや人々が法律を自ら進んで守るための褒賞の存在などがかなり詳しく述べられている。法律家のモアにとって、(宗教を別として)社会基盤としての法律や法制度の重要性を強調するのは当然のことだったに違いない。

しかしユートピアを「どこにも無い国」にしているのは何よりも、公共の利益と平和を求めるユートピア人の性質なのではないかと個人的には思う。「金銀を汚いもの、恥ずべきもの」と考える人々が個人的に大きな富を所有することは難しいだろう。私有財産に関心のない人々は公共財産の増進に心を砕くかもしれない。「どんな人間でも自分に危害を加えない限り、敵と見なすべきでは」なく、「戦争で得られた名誉ほど不名誉なものはないと考えている」人たちの間では争いも起きず、他国へ戦争を仕掛けることもなく、平和が保たれるはずだ。

ユートピア人のこういった性質はそもそもどこから来ているのか。少なくとも一部は教育の賜物と言えるだろう。しかし教育がなぜ上手く機能しているのかが、非ユートピア人である読者にはなかなか理解できない。他の例として、本書には窃盗犯に対する扱いについての記述がある。窃盗犯は日中に公共の労務を果たし夜は独房で過ごす。「国家の共通の召使い」である彼らにはかなり良い食事が提供され、給与が支払われる。そして給与の財源は「非常に慈悲の心に富んでいる」人々による寄付なのである。教育が慈悲の心をはぐくむことは間違いないが、それだけで十分なのかどうか疑問が残る。非ユートピア人であるヒロスデイア説明の中で何気なく「この方法は不安定なものではありますが」という一言を付け加えているのもうなずける。

ヒロスデイはユートピア国での滞在経験を踏まえてこう意見を述べる。「財産の雌雄が認められ、金銭が絶大な権力をふるう所では、国家の正しい政治と繁栄は望むべくもありません」それに対してモアは(おそらく読者を代表して)、私有財産が認められない社会では人々が真面目に働くインセンティブを持たず、結果として幸福な生活が実現しないのではないかと疑問を挟む。ヒロスデイはモアの疑問を「見当ちがい」と一蹴するが、具体的な理由を挙げて反論することはない。ここにも制度とは別の、ユートピア人の何か特別な性質こそが重要であることが暗に示されているように思える。もっとも続く第2巻ではこの疑問への答えとして「国民がぶらぶらと時間を空費する事由が許されていない」、「怠ける口実や言い訳があたえられていない」と飛べられている(本書巻末の「解説」によると第2巻が第1巻より先に書かれたという)。

モアの描くユートピアが理想国家であるかどうかはともかく、制度や法律をどう設計するにせよ、人々の考え方や価値観(そしてそれらを正しく導く教育)こそが重要であることを本書は示唆しているのだろう。

誰のワクチン接種が優先されるのか

新型コロナウイルス1

 

2020年の最も大きな出来事は新型コロナ感染症(COVID-19)のパンデミック(世界的な大流行)だろう。12月までに世界で死者は160万人を超え、日本でも日々、感染の第3波の様子が報じられている。経済活動への影響もまた深刻だ。各国の主要都市ではロックダウンによって経済活動が大きく停滞した。日本でも新型コロナの影響によって多くの企業が倒産するなど、経済へのダメージは甚大だ。

 

新型コロナ関連で明るい話題と言えばワクチンに関するものだろう。米製薬会社ファイザー(Pfizer)が独バイオ企業ビオンテック(BioNTech)とワクチンを共同開発し、有効性が90%を超えると発表したのが11月9日。12月11日には緊急使用が承認されたThe New York Times, December 11, 2020)。

www.nytimes.com

18日には米バイオ企業モデルナ(Moderna)が開発したワクチンも承認された。実は中国、ロシア、英国、米国の4か国を合わせると、110万人を超える人たちが既にワクチンを接種している(「コロナワクチン接種、4カ国で110万人超え」『日本経済新聞』オンライン版2020年12月19日8:09 )。

www.nikkei.com

日本でも12月2日には「予防接種法改正案」が成立し、早ければ2021年3月にはワクチン接種が始まる見込みだ(厚生労働省新型コロナウイルス感染症のワクチンについて」)。

 

誰のワクチン接種が優先されるのか

 

3月からワクチン接種が開始されるとしても、全国民が直ちにワクチンの恩恵にあずかれるわけではない。ワクチンの量に限りがあるからだ。そのため「まず誰に接種するか」という優先順位が問題になる。新型コロナウイルスについて言えば、「新型コロナウイルス感染症対策分科会」が優先順位も含めた接種のあり方を検討していて、2020年9月25日に「中間とりまとめ」を発表した(「新型コロナウイルスワクチンの接種順位等について」)。

 

「中間とりまとめ」では接種目的をこう述べている(9ページ)。

新型コロナウイルス感染症による死亡者や重症者の発生をできる限り減らし、結果として新型コロナウイルス感染症のまん延の防止を図る。

公衆衛生の観点から、死亡者や重症者の数をできるだけ抑えるという目的は妥当である。次いで、「中間とりまとめ」では接種順位がこう説明されている。

を接種順位の上位に位置付けて接種する。今後、具体的な範囲等について、検討する。

  • 高齢者及び基礎疾患を有する者や障害を有する者が集団で居住する施設等で従事する者の接種順位について、業務やワクチンの特性等を踏まえ、検討する。

さらに、妊婦の接種順位について、国内外の科学的知見等を踏まえ、検討する。

 

「医療従事者」「高齢者」「基礎疾患を有する者」を優先することは分かるが、彼らの接種順位が同等なのか異なるのか、この説明からは読み取りにくい。ただし「考えられる接種順位の大まかなイメージ」(18ページ)を見ると、①医療従事者、②高齢者、③基礎疾患を有する者の順で優先的にワクチンを接種することが想定されていることが分かる。

 

この「中間とりまとめ」を読むと、接種順位の中に「社会機能維持者」が含まれていないのが不思議である。社会機能、つまり流通インフラや公共サービスを提供する人たちがコロナウイルスで倒れてしまえば社会は混乱に陥ってしまう。実際、2009年2月に改定された「新型インフルエンザ対策行動計画」では新型インフルエンザの発生・流行状況のどの段階でも「医療従事者及び社会機能の維持に関わる者」を優先接種すると書かれている。

 

社会機能維持者が誰を指すのかについてはまちまちだが、例えば「新型インフルエンザワクチン接種に関するガイドライン」(2007年3月26日、新型インフルエンザ専門家会議)では、社会機能維持者を①治安を維持する者、②ライフラインを維持する者、③国又は地方公共団体の危機、管理に携わる者、④国民の最低限の生活維持のための情報提供に携わる者、⑤ライフラインを維持するために必要な物資を搬送する者としている。また「新型インフルエンザ対策行動計画」(2011年9月20日新型インフルエンザ対策閣僚会議)では、社会機能の維持に関わる事業者を「医療関係者、公共サービス提供者、医薬品・食料品等の製造・販売事業者、運送事業者、報道関係者等」と定義している。

 

優先順位に関する2つの問題

 

ワクチン接種の優先順位に関する問題は大きく分けて2つある。優先順位の決め方と実際の接種である。

 

優先順位をどうするのか。これは「医療の配給」にまつわる問題で、生命倫理学や医療倫理学の分野で議論されるテーマだ。グレッグ・ボグナーとイワオ・ヒロセは『誰の健康が優先されるのか』(2017年、岩波書店)の中で、医療の配給方法は合理的で、かつ倫理的・道徳的に正当化できなければならないと述べている(本書の内容についてはこちらの記事をお読み頂きたい)。そのような配給方法を考えておけば、医療現場での恣意的なワクチン接種を避けることができる。また、医療スタッフに「命の選別」を強いる必要もなくなる。

 

しかし仮に「完全な優先順位」を決めることができたとしても、問題は残っている。優先順位に従って人びとにワクチン接種することが、現実には非常に難しいのである。「新型コロナ:ワクチン接種と公平性のジレンマ」(『ニューズウィーク日本版2020.12.22号』)はワクチン接種に関して現実に起こりうる問題に懸念を示している。

www.newsweekjapan.jp

例えば、医療関係者や高齢者の接種が終わって、次は社会機能維持者に対してワクチンを接種するとしよう。「新型インフルエンザ対策行動計画」では「報道関係者」が社会機能維持者として定められているが、果たして報道関係者とは誰のことか。新聞記者は報道関係者と言って問題ないだろうが、新聞社に勤務するすべての人が報道関係者というわけではないだろう。報道関係者かどうかを業務によって線引きするのは難しいように思える。またこの時代はブログやYouTubeを通じて誰でも「ニュース」を発信できる。全員が報道関係者でないのは自明だが、では報道関係者と言えるための条件は何だろう。「いつワクチン接種できるのか」が書くように優先順位を決めるための「条件」が示されても、「住民のうち誰が、どのグループに該当するかを個別に判定するプロセス」が大きな問題となるのだ。また、条件に合致するかどうかが「観察可能」でない場合、問題はもっと複雑になるに違いない。ワクチン接種を求めて自分の属性を偽る人がいるだろうからだ。

 

問題があろうとなかろうと、ワクチン接種は来年には始まるだろう。それは人びとが望んでいることでもある。社会の混乱が最小限で済むことを祈りたい。