とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

グレッグ・ボグナー、イワオ・ヒロセ(児玉 聡、他)『誰の健康が優先されるのか――医療資源の倫理学』岩波書店

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どのように医療を配給するべきか?

「医療の配給」は、医療資源を振り向ける治療方法や医療サービスを提供する患者集団の「選択」を意味する。つまり「どの抗がん剤を健康保険の適用対象に加えるか」や「インフルエンザのワクチンを誰に投与するか」を決めるということである。英国の作家であるギルバート・チェスタトンは「何かを選ぶことは別の何かを選ばないことである」と言ったが、医療の配給において彼の言葉は特別な響きを持つように感じられる。

どのように医療を配給するべきか?グレッグ・ボグナーとイワオ・ヒロセによる『誰の健康が優先されるのか――医療資源の倫理学』(岩波書店、2017年)は生命倫理学の立場からこの問いへの答えを探っている。著者はそれぞれスウェーデンとカナダの大学で教鞭をとる2人の哲学者だ。

本書の議論をまとめておこう。

  1. 医療資源が限られているため、医療の配給は避けられない。
  2. 医療の配給方法は合理的で、かつ倫理的・道徳的に正当化できなければならない。
  3. 費用効果分析に基づいて配給方法を決めるのは合理的である。
  4. 「効果」を評価するうえで公平性を考慮に入れることで、3. を倫理的・道徳的に正当化できる。
  5. 他方で医療の配給方法を決めるにあたって、行為の選択や帰結に関する個人の責任を考慮に入れるべきではない。

まず、1章を丸ごと充てて本書は1. を説明する。レビュアーの私見ではこの主張は自明である。とはいえ背景説明はその後の議論を展開するために重要だし、1章を読むことで著者たちが慎重に議論を進めていく姿勢をうかがうことができる。また1章では医療の配給が実際に世界中で行なわれている事実に読者の注意を向けさせる。そのうえで本書は医療の配給の望ましさを強調する。もちろん配給方法が合理的かつ倫理的に正当化できる場合には、である(2.)。配給方法の決め方が備えているべき性質が2章以降で議論されていく。

著者たちの提案は、配給の決定に費用効果分析を用いるべきというものだ。費用効果分析では(福利そのものではなく)健康関連QOLなどの尺度を用いて介入・治療の「効果」を測定する。他の条件を一定とすれば、健康状態を大きく改善する介入・治療に高い優先度が与えられる。これは合理的と言えるだろう(3.)。費用効果分析の前提には、医療の受益者の便益を足し合わせることが可能だとする「集計のテーゼ」がある。著者たちはこのテーゼを認める立場に立つ。

費用効果分析に対しては「公平性」の観点による批判がある。しかし著者たちの見解によれば、受益者の便益の評価に「優先主義」を取り入れることで、公平性に配慮しながら費用効果分析を行うことができる(4.)。例えば健康に恵まれているかどうかや年齢によって個人の便益に重みづけすれば、これらの事情を効果の大きさに反映させることができる。これが優先主義の考え方である。

他方で「誰の治療を優先すべきか」という問題において特に、不健康な状態を自ら招いた患者の「責任」を判断基準の1つとするのが公平だという議論がある。しかし著者たちはこの考え方を退ける(5.)。理由の1つとして、患者の選択は実際のところ、患者が置かれている社会環境や経済状況から大きな影響を受けているかもしれず、その状況を選んだのは患者の意思とは無関係かもしれないからだ。

新型コロナのワクチン開発が成功し、いよいよ投与が始まるというニュースに人びとが接し始めたのは2020年の暮れである。しかし誰もがすぐにワクチンの恩恵にあずかれるわけではない。では誰が優先されるのか。本書の議論が突如、身近で現実的な問題として人々に意識されるようになってきたわけだが、解決策は一朝一夕に見つかるわけではない。私たち自身が普段から入念に考えておく必要があり、本書は考え方の柱を提供してくれる。

カビール・セガール(小坂恵理)『貨幣の「新」世界史』早川書房

本記事ではカビールセガールによる『貨幣の「新」世界史』の内容を紹介して、感想を書いておこう。

本書の内容
お金に対する理解を深めたいという著者の思いから本書は生まれた。確かにお金とは不思議な物である。私たちが普段の生活で当たり前のように受け入れている1万円札には、実際に1万円の価値があるわけではない。しかしほんの何十年かさかのぼれば、貨幣は額面分の「金(ゴールド)」と交換が保証されているという意味で、実体としての価値を備えていた。前者を不換紙幣(本書の用語ではソフトマネー)、後者を兌換紙幣(同じくハードマネー)という。本書はハードマネーからソフトマネーへと続く通貨の歴史を簡潔に紹介している。

本書が扱うテーマは通貨の歴史だけではない。単なる交換手段を超えて貨幣が私たちに対して持つ意味合いが、心理学や神経科学の知見や宗教をとおして分析されている。一般的に言って私たちはお金が好きだが、これはお金が「進化本来の目的に直接役立つわけではないが、生存に欠かせないものとして脳に刻み込まれている」からだ。また、お金が私たちの意志決定に大きな影響を及ぼすことが脳のスキャン画像から分かる。だからこそ既存の宗教は、人々がお金に惑わされないように「(お金が)少ないほどよい」「足るを知る」という精神的論理を強調する。

4人の古銭収集家に取材した最終章は、本書のなかで最もオリジナリティーにあふれていて面白い(が、残念なことにこの章が1番短い)。著者は彼らに「自分の国の象徴として、最もふさわしいコインを教えてください」と問いかける。読みながら、さて日本を1番よく表している硬貨はなんだろう?と自分でもつい考え込んでしまう(戦後の復興を象徴する東京五輪1000円硬貨なんかどうだろう)。

これは貨幣についての本なのか
このように本書の内容は幅広い。幅広いことは悪いことではないが、本書は内容に統一感を持たせることに成功しているとは言い難い。そのせいで、全体的に著者が勉強したことの寄せ集めのような内容になってしまっている。

本書の第1章は植物の光合成や生態系における共生関係を「交換行為」ととらえながら、エネルギーを貨幣の一種と見る。また、交換行為が協力関係の1つだという見方を紹介したうえで、ゲーム理論や進化論によって協力関係が進化的に安定しやすいことを説明する。

多くの取引――物やサービスの交換――に貨幣は欠かせない。つまり、貨幣は交換取引の重要な媒介手段なのだが、光合成におけるエネルギーの移動を持ち出されると、こじつけが過ぎるという印象を受ける。著者は貨幣について多くを学ぶ中で「お金は価値のシンボルだという定義にたどり着いた」という。この定義にどう照らしても、生態系での共生関係は貨幣と無関係だろう。

また、第2章の大半は伝統的な経済学と新しい経済学(行動経済学や実験経緯学、神経経済学など)の違いを説明するのに充てられている。人々の「非合理的」な行動を、行動経済学は伝統的な経済学よりもうまく説明できることが多い。本書でもにおわせているように、2008年の金融危機が「経済学の失敗」の結果であるならば、行動経済学や神経経済学の発展によって、今後は危機の発生を防げるかもしれない。こういった内容はともかく、やはり本章も貨幣についての考察とはあまり関係ない。経済学も金融もお金と関係すると言えばそれは正しいけれど、少なくとも貨幣についての理解が深まることはなさそうに思える。

内容が不正確なのでは
著者が「はじめに」でこう述べている。

本書は一般的な理論を深く降り下げるわけではないし、従来と異なるユニークな見解を紹介するわけでもない。巻末の文献で紹介したすばらしい方々の努力の成果を一冊にまとめたものである。

膨大な文献を渉猟し、分野を横断して1冊の本を上梓するのは大変な作業だっただろう。しかし、そういった文献を正しく読み込めていないと思える記述がしばしば見られる。いくつか例を挙げよう。

第2章では協力が当事者に便益をもたらすことを、アクセルロッドによる繰り返し囚人のジレンマ実験に言及しながら議論を展開していく。しかしゲーム理論を仕事で使っている身からは、囚人のジレンマについての不正確な記述がやはり気になる。「[対戦相手が協力と裏切りの]どの選択肢をとるか、お互いにわからないところがジレンマに陥る所以だ」(50ページ)と著者は書くが、これはまったく正しくない。相手の選択肢が分かったとしても、個人の観点からは「裏切り」を選ぶことが常に最適であり、それによって得られる結果が「双方が協力する」ことで得られる便益よりも低い。そのことを理解していても裏切っていまうことが「ジレンマ」なのである。

貨幣の将来を論じた第6章では、世界の大半では決済手段として現金が使われているというマスターカードの報告書を取り上げて、その例として6700万枚しかクレジットカードが発行されていない中国に言及している(2013年)。しかしこの時点で中国はすでにモバイル決済が主流であって、現金はあまり使われていなかった。

本書が取り上げている多くの分野について、よく知っている人が読めば内容の不正確さが気になるという点が他にもあるのではないだろうか。

評価:「交換」をキーワードにした連想ゲームのような本
ジャレド・ダイアモンドによる『銃・病原菌・鉄』以来、様々な分野を横断的に多くの文献を渉猟して書かれた書物が世間でもてはやされる傾向があるように思う。それ自体は問題ではないが、単なる知識の羅列以上ではないような本が増えているような気がする。本書もその1つだろう。色んな分野の文献を横断的に読み込んで1冊の本を書き上げるのは大変だっただろう。けれども著者の労力は必ずしも、本に対する評価に反映されるべきとは言えない。本書が取り上げたテーマについては専門家によって書かれた良書が多く存在している。それらは本書でも随所で言及がある。その意味で、本書は良い文献案内になっていると言えるかもしれない。

日本とスウェーデンの共通点

「限りなく完璧に近い国々」
「北欧」という言葉には良い響きがある(と思う)。人びとの所得が高いが税金も高い。その分、医療や教育が無料で受けられて福祉制度も充実している。いつかは北欧で暮らしたい。北欧諸国に対してこのようなイメージを抱く人は多いだろう。実際に、「世界で最も住みやすい国指標」としても知られる「Social Progress Index」のランキングでは上位5位までに北欧4か国がランクインしている(2020年度)。

socialprogress.blog

北欧諸国の1つであるスウェーデンは、今回のコロナ禍でも人びとの行動をほとんど制限しないという方針を貫いて世界の注目を浴びた。先ほどのSSIランキングでスウェーデンは第4位である(2020年)。この結果は多くの人がスウェーデンに対して抱くイメージをある程度まで裏付けているように思える。しかし、「世界がスウェーデンに抱く虚像」という記事によれば、人びとが持っている「スウェーデン像」は虚像にすぎないのだという(『ニューズウィーク日本版』2020年11月10日号)。記事によれば、スウェーデンは開放的で反差別的な国--こうした国家像はスウェーデン人が自ら掲げる「あるべき姿」なのであって、現実とは相いれない。
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スウェーデンの同調主義
世界がスウェーデンの現実ではなく虚像を見るのは、スウェーデン人が自らその虚像を信じているからだ。記事が冒頭で紹介しているスウェーデン国防軍人の「経歴詐称事件」はともかく、スウェーデン人の思い込みの背後には根強い同調主義があるとする著者の指摘は正しいだろう。スウェーデン人は「自分がどう振る舞うべきかを心得ていて、他人にも同じ振る舞いを期待する」。

もっとも、このような指摘は珍しくない。北欧社会の特徴を国ごとに描いた『限りなく完璧に近い人々』(角川書店)でマイケル・ブルースは、そもそも北欧は民族や文化といった点で同質性の高い地域だと書いている。同質性の欠点は人びとが全体主義におちいりやすいことで、スウェーデンの特徴の1つがまさにこの点なのだという。移民に対する反感が生まれやすかったり、独創性を生む土壌ができにくかったりする。そして誰もが摩擦を避けようとする結果が全体主義である。

日本とスウェーデンの共通点
ブルースによれば、スウェーデン人は「ほかの人とエレベーターに一緒に乗るのを避け」、「知らない人とどう口をきいたらよいか、わからない」という人たちだ(この本が出版されたのはコロナ禍の前であることをお忘れなく)。この記述を読んで日本人はスウェーデン人に親近感を抱くかもしれない。まるで日本人について書いているようだ。伝統的に単一民族の国家とされる日本は民族や文化の同質性が高いし、日本の社会全体に同調主義が広く行きわたっていることは誰しも認めるところだろう。「空気を読む」とか「忖度」といった言葉が日常的に使われることからも、日本社会に溶け込んでいる同調主義がうかがえる。

ところで何が同調主義を生み出しているのだろう。先の記事はスウェーデンが「高信頼社会」だと書いたうえで、高信頼社会が同調主義の背後にあると指摘する。ただし「信頼」という言葉の意味には注意が必要だろう。ここで思い出されるのは、信頼と安心の違いを明らかにした山岸俊男の議論だ。『信頼の構造』(東京大学出版会)によれば、全体主義的な集団主義社会は安心を生み出すものの信頼を破壊する。人びとの関係が非常に安定していれば、お互いにわざわざ信頼し合う必要はない。そしてこのような関係から人びとは安心感が得られる。言わば、スウェーデンは「高安心社会」なのだ。これは日本も同じである。

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

  • 作者:山岸 俊男
  • 発売日: 1998/05/15
  • メディア: ハードカバー

『信頼の構造』によれば「信頼が必要とされる社会的不確実性の高い状況では、安心が提供されにくい」。コロナ禍で先が見通せなくなっている現在はまさにこのような不確実性の高い状況だと言えよう。現在の日本(とスウェーデン)では、社会が必要とする信頼を破壊してしまう同調主義を意識的に見直していくことが求められるのではないだろうか。

ファストファッションとスローファッション。『ファストファッション』を読んで考えたこと

2年ほど前に買ったまま「積ん読」だった『ファストファッション:クローゼットの中の憂鬱』(エリザベス・L・クライン、春秋社)を読み終えた。ファストファッションに代表される格安ファッションが地球環境に与える悪影響や、製造現場の劣悪さなどは色んなところで話題に上っている。その意味で本書の内容が目新しいというわけではない(もっとも原書が出たのは10年前で、読み終えるのが遅かったからかもしれない)。

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ファストファッションと対置される概念が「スローファッション」。地域や環境に配慮しながら何を着るのか決めるという考え方のことで、2007年6月にケイト・フレッチャー(Kate Fletcher)というデザイン活動家(サスティナビリティについての研究者でもある)が『Ecologist』に掲載した「Slow fashion」という記事で用いたのが最初と言われている。もっとも、フレッチャーは記事で、スローとはファストと対立するものではないと書いている。そうではなく「製品が労働者や社会、環境へ与える影響をデザイナーやバイヤー、小売業者、消費者がもっと意識する」というファストとは違った関わり方のことなのである。

衣服との関わり方としてエシカルファッションやスローファッションが1つの潮流となりつつある現在、読んでおく価値のある本だと思う。まずは本書の概要を簡単に紹介しよう。

市場にあふれる大量の粗悪品

アメリカではアパレル業界が30年ほどで大きく様変わりした。国産の衣料品が姿を消し、超高額な品と格安品の二極化が進んだ。値段の高いブランド品でも品質が高いとは限らず、市場は大量の粗悪品であふれて人々は服を使い捨てるようになった。アメリカの服飾産業でなにが起きたのか?本書はこの疑問に答えてくれる。

本書によれば、アメリカ人はいまだかつてないほど多くの服を持っている。とは言えアメリカ人が昔と比べて衣料品にお金をかけるようになったわけではない。格安ファッションが出回り、衣服の価格が下がったのが理由だ。アパレル企業は服を「格安」で提供するために縫製工場をアメリカ国内ではなく人件費の安い中国やバングラデシュに置く。しかし消費者が求める低価格に応えるためには工場をアジアに移すだけでは不十分だ。最低賃金(を下回る賃金)を従業員に強い、劣悪な労働環境を放置し、生地の質を可能な限り下げる。それでも低価格に慣れた消費者は「高い価格を不当と見なす」ため、企業はさらに価格を下げざるを得なくなる。「いまだかつてない大量販売」(128ページ)を展開するファストファッションがこの悪循環を助長している。

こうした状況は多方面に多くの損害をもたらしている。著者の主張は3つにまとめられるだろう。

  1. ファッション関連企業が海外へ進出した結果、産業が衰退し多くの人が失業した。また、賃金も下がった(2章)。
  2. 市場に出回る服が粗悪になり、生地の品質や仕立ての良い服を見つけるのが難しくなった。本当に質の良い服があっても、それらの価格は手が届かないくらい高い(3章)。
  3. 資源を枯渇させるほど大量に服を製造することで環境に過大な負荷がかかっている。それらの大量生産された服は大半がリサイクルされず大量のゴミを生んでいる(5章)。

この状況を改善するための方策として著者が本書で提案するのが裁縫(8章)とスローファッション(9章)だ。どちらにも共通するのは一人ひとりが購入数を減らし、それぞれによりお金をかけるということ。つまり良い物を少なく持って長く使おうというのである。著者自身は裁縫を覚えて格安ファッションと距離をおくようになった。服を自分に合うように作り直すことを知って、服との接し方が変わったようだ。スローファッションにはファッション性という強みがあり、地域で作られた「自己表現のための服」にお金をかければ社会全体を元気にすることができるとも著者は言う。

「最新のものを最安値で手に入れる」を信条として格安ファッションを買いあさっていた著者は、本書の書き終えるころにはすっかり宗旨変えしてしまった。「格安ファッションにお金をかけるのがどんなに無駄か、今は身にしみて感じている。何しろ生地も仕立ても、持つ価値のないものがほとんどなのだから」(252ページ)という著者の言葉は印象的だ。

 

さて日本はどうか?

本書が出版されたのは10年前のアメリカだが、さて現在の日本はどうだろう。H&Mが日本に最初の店舗を銀座でオープンしたのが2008年。2019年11月21日には仙台に100店舗目を出店した。それとは対照的に、フォーエバー21(FOREVER21)は2019年10月31日に国内の全店舗を閉鎖して日本から撤退した。どちらも本書でファストファッションの代表格として取り上げられているアパレルブランドだ(FOREVER21はデザインの盗用などが主な話題だったが)。両社の盛衰を分けたのかが何なのかを読み解くうえで、本書の内容が参考になるかもしれない。そして今後の日本のファッションの動向を考えるうえで、本書のメッセージには私たちにとって重要な示唆が含まれていると思う。

本書を手に取る人は多かれ少なかれファッション(あるいはアパレル業界)に関心を持っているだろうけれど、世の中には服は着られればよいと考える人も多い。本書はそういった人たちを無視しているが、彼らと格安ファッションとの関係についても考察する意味はあるだろう。

 

究極のスローファッション「着物」

今までファストファッションにまったく興味を抱いたことのない身としては、人びとを格安ファッションへと駆り立てる原動力がなんであるのか、本書を読んでもどうも理解できない。経験的にも、高いお金を出して買った質の良い服は大切にしようという気になるけれど、安物は扱いもぞんざいになる。

去年から着物生活を始めて、日ごろから普段着として着物を着ている。それでふと思い立ったのは着物こそ究極のスローファッションなのではないか?国内の産地で紡いだ絹糸を地元の工房で染め上げる。職人が作り上げた反物を和裁士が着物に仕立てる。多くの工程が手作業で仕立て上がるまでに時間はかかるものの、品質は間違いなく高い。そして当然のことながら使い捨てられるようなものではなく、長く着られる。良い物ならば世代を超えて子や孫や、あるいは知人でも、持ち主を変えて受け継がれていくこともあるだろう。着物生活は環境に優しいライフスタイルだと思う。

着物が環境に優しい理由の1つは「別誂え」という売り方にあるのだろう。老舗の呉服問屋である廣田紬さんは、ブログでこう書いている(「エコな着物? 世界に誇る究極のエシカルファッションとは」『問屋の仕事場から』2019年3月19日)。

呉服という商売はやりようによって沢山の在庫を抱えずに効率の良い商売が可能になっています。例えばフォーマル着物の世界では在庫を極力持たずにお客さんから白生地の状態から任意の柄を作る、別誂えという方法が確立されています。必要な分だけを作るという究極にエコで効率的な商売、さらに個人規模で営業しているのであれば経費を極力抑えることができ、それを商品価格に反映して消費者ともにWin-Winの関係を築くことができます。

もっとも現在は着物も多種多様で、ファストファッションとは言わないまでも、あまり質のよくない既製品も多く出回っている。もっとも、現状では着物が大量生産・大量消費されることはないので(着る人が少ない)地球環境に悪影響を及ぼすようなことはないと思うけれど。実はファストファッション・スローファッションという文脈で着物を論じた論文が書かれていて、なかなか興味深い。関心があったら目を通してみてもよいだろう。

Jenny Hall. (2018) “Digital Kimono: Fast Fashion, Slow Fashion?Fashion Theory, 22(3), 283-307.

軍縮を望む世界と軍拡を望む各国-囚人のジレンマ-

中国軍の侵攻で台湾軍は崩壊する」(『ニューズウィーク日本版』 2020.9.29号)という記事を読んで思わずため息が出た。近年、軍事費を大幅に削減した台湾を激しく非難する内容の記事だ。中国軍の侵攻という脅威を傍目に、現状の台湾軍では太刀打ちできないという危機感からこの記事は書かれていて、その指摘は一理ある。受け入れがたいのは、眼前の危機に対処するべくとにかく軍拡が必要という記事の論調である。軍備拡大が必要とされる状況であってもあくまで軍拡は「必要悪」なのであって、本来、軍事力は小さくあるべきなのだ。記事を読み終えて、軍事費(防衛関係費)を年々増やしている日本も他人事ではないなと不安な気持ちになった。

 

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軍拡は安全保障問題を解決してくれない-安全保障のジレンマ-

 

国際政治学や安全保障学に「勢力均衡論」という考え方がある。単純化すると、2つの大国が軍事力で拮抗していればそれらの国同士で戦争は起きないという考え方だ。勢力均衡論に即して言えば、米ソの冷戦が戦争へと発展しなかったのは、両国が同じ程度の軍事力を備えていたからである。それによって世界平和が(ある程度)保たれていたわけだ。

 

この考え方について注目したいのは、軍事力が均衡していることが重要なのであって、その規模は問われないという点である。軍事力を金額で表せるとして、両国が100兆円規模の軍事力を備えている場合も、規模が1兆円程度の場合と何ら変わらないのである。いくら軍備拡大を続けても一向に安全とならないこの現象は「安全保障のジレンマ」と呼ばれていて、勢力均衡政策におけるもっとも重要な問題の1つである。

 

そうであれば各国の軍事力は小さい方が誰にとっても望ましいはずである。小さな軍事力、つまり軍事費が安くすむのであれば政府は社会保障や教育など他の分野に資金を回すことができる。これは世界中のどの国にとってもあてはまる。端的に言って、軍事費はできるかぎり抑えるべきだという提言がここから導かれる。国連に軍縮を目標とする専門機関が存在するゆえんである。

 

軍拡という愚

 

思考実験として、どの国もまったく武力・兵器を持たない世界を想像してみよう。この世界では戦争は決して起きない。起こりようがない。隣国と諍いが生じて暴力に発展することがあっても、それは戦争ではなくせいぜい「喧嘩」である。なんともすばらしい新世界

 

他方でどの国も多くの軍備を抱えている世界を考えてみよう。想像するまでもなくこれが現実の世界、世界の現状である。核兵器などの威力が高い兵器はおいそれと使用できないとはいえ、何かのタイミングで通常の武力衝突がエスカレートしないとは言い切れない。

 

どちらの世界に住みたいだろうか?筆者には答えは明らかなのだが。

 

軍縮は難しい-囚人のジレンマ

 

20世紀に起きた2度の世界大戦から、人類は戦争の愚かさを学んだはずだった。が、喉元過ぎればなんとやら、世界はいつでも再び世界規模の戦争を起こせるように準備万端だと言える。世界中で見られる軍備拡大がこのことを雄弁に物語っている。なぜ世界の(多くの)国々は軍備の拡充に勤しんでいるのか。

 

他国が軍拡するならば自国も軍拡すべき、というのはある意味で合理的だ。両国が軍縮するのが両国にとって望ましいとしても、である。これはゲーム理論でいう「囚人のジレンマ」なのだ。お互いに「協力(=軍縮)」することが誰にとっても望ましいのに、皆が「裏切り(=軍拡)」を選んでしまう。ただし、囚人のジレンマで実現する結果はあくまで当事者にとって不本意な結果であることに注意すべきだろう。植木等が軽快に歌い上げたように「分かっちゃいるけどやめられない」のである。もっとも、経済学者が色んな国や地域で行なってきた「囚人のジレンマ」実験からは、多くの人びとは目先の利益を犠牲にして「協力」を選べることも分かっている。これは軍縮への道にとって大きな希望である。

 

最初に触れたニューズウィークの記事に則して言えば、囚人のジレンマの状態にあって中国軍の軍事力を弱めるにはどうすればよいか、この点こそ知恵を絞って考えるべきなのだ。軍拡という安易な道を後押しするような論調が社会の優勢にならないことを切に望む。

防衛省初の防衛装備「不用」品オークション「Defense Auction」

官公庁が休みであるはずの日曜日(2020年7月26日)、市ヶ谷(東京)にある防衛省本省の講堂に200人ほどの人が集まった。実はこの日、防衛省として初めての試みとなるオークション「Defense Auction」が開かれて、自衛隊の飛行機や戦艦の部品などの不用となった防衛装備品21点がせり売りされた。オークションに参加したのは抽選で選ばれた東京都の在住者176人だ。

 

最高値を付けたのは航空自衛隊が出品した「パイロット関連用品セット」(ロット番号21番)だ。具体的には航空ヘルメット・酸素マスク・航空ヘルメットバッグのセットで落札額は66万円。競売人をつとめた河野防衛大臣(当時)が金額を釣り上げていく。「55万円、58万円、66万円……、66万円、273番おひとかた、いらっしゃらなければ273番の方に落ちます」金額の刻み方が見ていて不思議だったが、まあ、事前に上げ幅もきちんと打ち合わせてあったはずなので計画通りなのだろう。この「パイロット関連用品セット」は出品リストの最後に名前を連ねていて、3万円という開始価格も品物の中で一番高い。防衛省側もこれを目玉商品と考えていたに違いない。オークションの様子は一部、YouTube動画などで観ることができる(「初の競売 落札総額は581万円 自衛隊装備品オークション」テレ東NEWS(2020年7月27日21:05))。

 

www.tv-tokyo.co.jp

 

オークションの売り上げは全部で581万8千円。開始価格の合計金額17万7千円に比べると大きな成果だったのではないだろうか(アートオークションなどでは落札額の予想である「エスティメート」と比べて、オークションの成功度合いを評価することが多いと思うが、今回のDefense Auctionでは予想落札額の提示はなかった)。オークションの開催前に河野大臣が発言していた「F35」1機分にはほど遠いし(もちろん「今日1日では無理だと思いますけれど」と言っていた)、5兆円を超える防衛関係費からすると微々たる金額だというのは間違いない。それでも不用品をまったくの「鉄くず」として処分するよりは有意義な営みだろう。

 

防衛省にとっては初の試みだった放出品の販売だが、例えば鉄道会社が行なう鉄道イベントなどではよく見かける光景だ。イベントの1つというよりメインイベントに近いかもしれない。こういったイベントではオークションで放出品を売ることもある。また、国や都道府県が差し押さえた物件を売る公売(こうばい)や、行政機関が公有財産を売るためにオークションを利用することは一般的だ。防衛省は今後も同じようなオークションの実施を考えているようで、オンラインオークションの活用も視野に入れているようだ。

 

ところで実は筆者も今回の防衛装備品オークションに関心があって、事前に参加を申し込んでいたところ見事に当選して「参加通知書」が送られてきた。ところが残念なことに、開催の3日前になって参加者が「東京在住者」に制限されてしまった(お詫びの手紙と一緒に記念品のボールペンが送られてきた)。このご時世なので仕方のないことだと思う。もっともオークションの落札結果を見てみると、「値段があまり高くなければ何か競り落とそうかな」といった軽い気持ちの筆者は参加しなくてよかったのかもしれない。

入札できる機会が増えると落札額が上がるのか?ドラマ『花不棄』に見る3ラウンド制入札

官銀流通権にまつわる入札

 

『花不棄(カフキ)』という中国ドラマが人気らしい。「美男〈イケメン〉貴公子たちとの波瀾万丈な恋と運命が待ち受ける2020年No.1ドラマティック・ラブ史劇!」で、公式ホームページによれば「同時間帯視聴率1位!総再生数100億回超!」とのこと。

kandera.jp

 

個人的にはイケメン貴公子にもドラマティック・ラブ史劇にも関心はないのだが、「ひょっとして興味があるんじゃない?」と第18話「胸に秘めた想い」を観るよう勧められた。何のことかと思ったら、官銀流通権にまつわる入札の場面だった。

 

官銀はお金のことで、紙幣や硬貨の製造・流通にまつわる諸々の事業を一手に引き受ける権利が官銀流通権だ。つまり公共入札である。現代の日本でも「箱物」を建てる際などに公共工事の委託(公共調達)を巡って競争入札が行なわれる。実際に昔の中国でこのような紙幣や硬貨の流通事業が民間に委託されていたのかどうかわからないが(そもそもドラマでは明確な時代設定がない)、ドラマの中では四大名家である莫府と朱家が権利を争って入札する。

 

刻限は線香1本分

 

入札が始まると莫府と朱家は指し値を考え、金額を示した用紙を入札箱に投入する。指し値を考える時間は限られていて、主催者の信王府は「刻限は線香1本」と宣言する。線香が燃え尽きるまでに入札を終えなければならない。家で焚いているお香はだいたい20分で燃え尽きるので、たぶんそのくらいだろう。短いとは思うが、当然、参加者は事前にじっくりと時間をかけて戦略を練ってきているはずである。入札結果はすぐに読み上げられて、莫府と朱家の指し値がその場の全員に明らかとなる。

 

ちなみに、カサディー(Ralph Cassady, Jr.)によるオークションの古典『オークション・アンド・オークショニング』(邦訳なし)によると、入札できる時間を「ろうそくが燃え尽きるまで」などと決める方法は17世紀のイギリスなどで広く用いられていたらしい。ただし、この本で紹介されているオークションは競上げ式のオークションである。

 

指し値を入札するチャンスは3

 

さて『花不棄』作中の入札で興味深いのは、この入札が3ラウンド制だということだ。2回目、3回目の入札では、それまでの相手の指し値がすべて分かったうえで自分の指し値を決める。どうしてこのような仕組みを採用したのだろう?

 

作中、1回目の入札で莫府と朱家の指し値はともに400万両。入札会場にいた他の参加者たちは金額の高さに驚く。去年は同じ官銀流通権が300万両で落札されていたからだ。この結果を受けての第2ラウンドでは、莫府500万両に対して朱家520万両。当然のことながら、入札は100万両単位でなくてもよい。

 

そして最終第3ラウンド。莫府は指し値を一気に800万両へと引き上げ、おそらく勝利を確信したのだろう、得意げな表情を見せる。主催者である信王府の言葉に耳を疑ったに違いない「朱家、800万と300両」。結局、わずか300両の差で官銀流通権を得たのは朱家だった。

 

何万単位の指し値が入札されていたのに最後だけ「300両」という半端な金額の差で勝者が決まるとは、いかにも裏がありそうだ。「もしや朱家には千里眼でもいるのか」と会場からは驚きの声も漏れる。実は、800万両という莫府の入札額を事前に知った信王(主催者)が情報を朱家に伝えていたのだった。つまり出来レースだったのだが、その点はここでは措いておく。

 

入札の機会が多くても主催者の得にはならない

 

入札の機会が3回あれば、指し値はそのつど上がっていく。つまり、3ラウンド制によって主催者に高い収益が見込める。そう考えるのは誤りである。合理的な入札者なら、その後の上昇を考えに入れて1回目、2回目の指し値を低く抑えるはずだからだ。そもそも早い段階で「本気の指し値」を見せてしまえば、手の内を見せることにもなりかねない。その意味でも、1回目や2回目は現実的に意味のないような低い金額(例えば1万両)を示すべきだと言える。

 

もっとも、早い段階で高い指し値を入札する意味がまったくないとは言い切れない。高い金額によって「落札するために出費はいとわない」「何が何でも落札する」という意思を明瞭に示して、競争相手を降ろすという戦略が考えられる。この場合、結果的に安い金額で権利が手に入るかもしれない。サザビーズやクリスティーズなどの絵画オークションでおなじみに競り上げ式(英国式)オークションでは、序盤で急激にビッドを吊り上げる「ジャンプ・ビッド」が合理的な戦略となり得ることが理論的に示されている。作中の入札方式は、もっとも高い指し値を入札した者が権利を獲得し、自分の指し値を実際に支払うというもので、オークション理論では1位価格オークションと呼ぶ方式である(公共工事競争入札で用いられる方式もこの派生形だ)。けれども、3ラウンド制のため、ある種の競り上げ式と見なすこともできる。もし入札者がジャンプ・ビッドによって得できるならば、主催者はその分だけ損をする。

 

こう考えると、官銀流通権の入札をわざわざ3ラウンド制にする意味はないと言えるだろう。1回きりの入札と比べて、落札額が高くなることはなさそうだからだ。1回目や2回目の指し値が高くなると(ジャンプ・ビッド)、結果的に落札額が下がることもあり得る。場合によっては、序盤の指し値が「談合」に使われる可能性もある。それよりは、素直に1回きりの(普通の)競争入札を行なって、入札の刻限を線香3本分にしてあげたれば参加者にはありがたいかもしれない。ドラマのたった1場面で、話を盛り上げるための小道具に過ぎないと言われればそれまでの話ではあるのだけれど。