とりまかし日記

経済学のアイデアを使って考えたことや、読んだ本の感想を書いています。

学生のレポートと政治家の似ているところ

ここだけの話、小論文やレポートの採点を苦痛に感じることが多い。出来るだけ避けたいとも思う。答案を注意深く読むのにはかなりの忍耐力が必要で、採点するのに長い時間がかかる。「それが仕事なのだろう」というお叱りはもっともで反論の余地はない。それでも心の内でこう嘆きたくなる。本当に苦行そのものなんですよ、と。

答案を読むのにかなりの忍耐力が必要だと書いたが、実は良く書けた答案を読むのに神経を集中させる必要はほとんどない。論旨が明快で理路整然。書き手の言いたいことがすっと頭に入ってくる。お題(問い)に沿った答えがずばりと一文で示されていて、きちんと積み重ねられたれんがのように理由や背景が文中に配置されている。反対に、質問に対する答えがどこに示してあるのか分からなかったり、持って回った書き方で曖昧に答えたり、あるいは題意と無関係な「説明」がとうとうと続いたりすると読むのが難行・苦行へと変わる。いつか悟りを開いた時に、これが精神力を鍛えるための貴重な機会だったことに気付けるのかもしれない。

「ああ、これ苦行の方のレポートと同じだ」『ニューズウィーク日本版』(2021年5月18日号)に掲載された菅首相のインタビュー記事を読んでそう思った(「中国に具体的行動を求める」)。記事の内容がすっと頭に入ってこない理由は記事の書き方が悪いからではない。インタビュアーの質問に対して菅首相が真正面から答えていないのである。読み終えてからも何かが胸につかえている感じが残る。誌面に掲載されているのは取材の「テープ起こし」による全文ではないので、当然、要点を整理して書かれているはずだ。それでも答えが曖昧なのだから、実際のやり取りで首相の答えを理解するのはさぞ大変だっただろう。もしこの記事がレポートの答案だったら大きくペケを付けるなんてことはないけれど、合格点を上げるかどうか迷うところだ。(大学の成績は相対評価だから他の答案の出来によっても変わる。)

例えば日本周辺地域の緊張と安全保障問題が増している原因を尋ねる質問は無視されているし、憲法改正について自身の立場を訊かれて「自民党憲法改正マニフェストに掲げている」と答えるのは変化球的だ。「習近平国家主席を東京に招いて日中首脳会談を行う考えはあるか」という質問に対する答えは「習主席を国賓として招聘できる状況にするには、まずパンデミックの抑え込みに集中しなければならず、今はまだ日程を調整できる段階ではない」これは「イエス」なのか「ノー」なのか。いや恐らく「答えたくない」という答えなのかもしれない。

「強い忍耐力が無ければインタビュアーなんて務まらないんだろうな」誌面の写真に写っているニューズウィークの編集長たちに思わず優しい目を向けた。

質問に正面から向かわず、のらりくらりと答えをはぐらかす。これは政治家にとって必須の何よりも大事だ技能なのかもしれない。揚げ足を取られずに済むというご利益が大きいことは理解できる。でも質問者に何ともすっきりしない、煙に巻かれた感覚を残すことは、大きな損失であることも理解するべきだろう。曖昧な答弁をくり返すような政治家は信頼できないし、ましてやそれが首相だったらリーダーシップを発揮するどころの話ではない。悪文に満ちたレポートと違って「単位を落とす」だけでは済まないのだから。

山本敦久『ポスト・スポーツの時代』(岩波書店)

このところオリンピックが気になる。何もこれは自分だけではないだろうと思うが、オリンピックは今後どうなっていくのだろうなどと考えながら手に取ったのが本書だ。タイトルだけ見てまさにぴったりと感じたのだが、内容は期待していた物とだいぶ違った。概要を紹介しつつ、本書の評価を述べよう。

ポスト・スポーツの時代

ポスト・スポーツの時代

ポスト・スポーツとはスポーツがテクノロジーやデータを取り込んでいく現象である。『マネーボール』を思い浮かべると分かりやすい。本書はまず、近代スポーツとの比較でポスト・スポーツの特徴を豊富な事例によって解説する(1章、2章)。重要な特徴の1つは、「生身の身体」がプレーの主体でなくなることである。

公平性を理念に掲げる近代スポーツは、アスリートが自然かつ生身の身体でプレーすることを前提とする。ドーピングを禁止する理由はここにある。しかし現在、2つの大きな変化によってこの前提が崩れてきていると著者は言う。

まずデータの集計や解析の技術が発展するにつれて、プレーを数値化し、予測することが可能になった。プレーのデータ化や解析が難しいと言われてきたサッカーでも「データ革命」が起きている。データ解析に裏打ちされたプレーに実際のプレーを近づけることを重視する結果、プレートデータの主従が逆転した。実際のプレーはデータ収集のための「素材」に過ぎない。スポーツをプレーする主体が「生身に宿る選手の人格と身体ヘクシス」から「データ化された身体」へと変化してきた(31ページ)。それと同時にデータを介してスポーツとかかわる企業も登場してきた。たとえばSAP社は「ヘリックス」を用いてサッカー・ドイツ代表のトレーニングや戦術強化をサポートした。

次にスポーツの実践において、身体という個体ではなく「前ー個体的」な神経や意識がプレーに及ぼす影響が重視されるようになってきた。たとえばサッカー・ドイツ代表は身体能力ではなく瞬時の認知機能を高めるトレーニングを導入し、実際に効果を上げている(84--88ページ)。この潮流を端的に表すのが運動機能に障害のある人たちによる競技であるサイバスロンや、そもそも身体を使わない競技であるeスポーツといった「前-個体性」のスポーツである。

テクノロジーやデータと結びついたポスト・スポーツの時代は資本主義との関係が深く、公平性は退けられる。データの活用によって偶然性が排除され、予測可能性や再現性といった特徴がポスト・スポーツには顕著に現れる。

1章と2章の内容はスポーツの今後の行方を議論するために非常に有用な論考だと感じる。ところが3章に入ると本書の内容はがらりと変わり、議論の方向も雲行きが怪しくなる。

現代社会とスポーツは「一回性・特異性の出来事が連続する」という意味で共通しており、どちらも柔軟で変幻自在な実践が求められる。このような実践を可能とするのが「ポスト・スポーツ時代の身体」で、知性と身体が結合した現象だと著者は論じる。

社会とスポーツに類似点があるのは確かだとしても、「一回性の出来事に向けて予見的に実践可能性を方向づけていくアスリートの能力は、労働や消費、日常における現代のコミュニケーションのひな形と考えられる」(113ページ)というのはこじつけのように聞こえる。大学教育におけるアクティブ・ラーニングや就職活動で求められるコミュニケーション能力が「知性と身体的実践、精神と身体を切り離せない事象」だとする議論もよく分からない。

多くの人が知性と身体を全くの別物と捉えているが、実際のところ身体は知性と分かちがたく結びついている。ゾーンやフローのような「身体の消失」経験はそのことを示す格好の例である。この主張は理解できるが、野蛮と啓蒙という2つの反対概念が結びつく(「野蛮が啓蒙へと回帰する」)というアドルノたちの議論を持ち出す必要が果たしてあるのか。ポストモダンの作法なのかもしれないが、議論が回りくどいのにもやや閉口する。

3章と比べると4章の議論は分かりやすい。現実のスポーツが一回性・特異性という特徴を持つにもかかわらず、スポーツの観戦者はプレーに「ステレオタイプ」を見いだす。膨大な練習量と高度な戦術がもたらす黒人選手のプレーを「高い身体能力」の結果と解釈するように。さらにメディアや企業のブランディングステレオタイプを強固にする。ステレオタイプの背後に著者は「身体論ナショナリズム」を見る。身体論ナショナリズムは人種差別と結びつくだけでなく、スポーツ観戦の魅力を損なうという著者の指摘には強く共感できる。ただし4章の議論はポスト・スポーツとはあまり関係がないように思う。

5章以降はまた違ったテーマで議論が進む。ポスト・スポーツの意味合いもこれまでとは違う。西洋白人主義の下で生まれた近代スポーツを「スポーツと呼び習わされてきたもの内部」で批判する実践をポスト・スポーツと呼ぶ(216ページ)。人種差別に対するアスリートの身体表現による抗議表明がソーシャルメディアを通じて抗議運動へとつながる。「ネットワークで繋がる諸身体の集合性」(174ページ)である「ソーシャルなアスリート」がポスト・スポーツの重要な特徴だと著者は論じる。

既存のスポーツを批判し多様性を認めていくプロセスをポスト・スポーツとみなす議論は、「生身の身体」からの乖離をポスト・スポーツの大きな特徴だと論じた第1部とまったく無関係ではない。しかし1章の内容からずいぶん遠くまで来たという印象はぬぐえない。

著者がポスト・スポーツという概念を生み出すきっかけとなったという「グリーン・ラボ」の活動を紹介する7章は興味深い。地元の雪山でスノーボードに親しんだスノーボーダーたちが自然環境そのものに関心を向けるようになり、環境問題に取り組んだり農業にいそしんだりする。しかしここでも議論の方向は突飛である。サーフィンやスノボなどを楽しむ「横乗り分化」の担い手は競争原理や勝敗志向よりも自由な感覚を重視するという先行研究を引きながら、「抵抗文化として誕生したスノーボードは、自然との共生やDIY、持続可能なライフスタイルを提起するオルタナティブなスポーツへと変容している」(269ページ)と指摘する。これが近年の新しい潮流だという点は同意するが、何もこれはスノーボードに特有な現象ではないだろう。例えばスキューバダイバーには珊瑚礁や生態系の保護など環境保全の意識が高い人が多い。

本書はポスト・スポーツをキーワードとする体裁を取りながらも「ポスト・スポーツ」という用語の意味が章によってだいぶ違う。そのため本書は全体としてのまとまりを欠く。競技大会やスポーツそのもののあり方を考察するにあたって1章と2章の内容はとても示唆に富む。それだけに、この2つの章だけを1冊の本(新書など)にまとめなかったのが残念に思えてならない。

小倉美惠子『諏訪式。』(亜紀書房)

新作映画のロケで諏訪を訪れた著者が、諏訪に何か恩返しをしたいという思いでまとめたのが本書である。著者を魅了する諏訪とはどのような土地なのか、何がそこまで著者を惹きつけるのか。諏訪の企業や人、風土について諏訪への愛情あふれる筆致で描き出している。

諏訪式。

諏訪式。

「土地にしっかりと根をはり、自らのバックボーンを力として生きている人びと」を著者は「軸足のある人」と呼ぶ。諏訪人は著者のいう「軸足のある人」なのである。軸足のある人によるものづくりは風土に馴染む。「諏訪にあるもの」を主軸に据えているので、諏訪の企業や産業には「ものづくりのDNA」が受け継がれている。その一方で気候環境の厳しい諏訪では、人びとが「自分で考え工夫する力」が求められてきた。熱心に勉強し、創造性を発揮しながら「なんとかやってみよう」とする。3代目武居代次郎が発明した「諏訪式繰糸機」はまさしく勤勉性と創造性の産物で、諏訪の製糸業が地位を向上する契機となった。諏訪のものづくりには「諏訪にないもの」である外来の技術を取り込んでうまく利用するという特徴があるという。この「合わせ技」こそが「諏訪式」なのである。山田正彦が出向で居合わせた小川憲二郎を誘って興した三協精機(オルゴール)や、「諏訪人の熱意と疎開組の技術力」が生んだ諏訪精工舎(腕時計)は合わせ技の威力を物語っている。

合わせ技を成功させるには当事者に強い信念と並々ならぬエネルギーが必要だっただろう。そうでなければ合わせ技は簡単に返されてしまい、地元企業は外来企業にのみ込まれてしまったに違いない。こうした人たちのなかに著者は「ゴタっ小僧」の面影を見出す。ゴタにはやんちゃとかきかん坊といった意味があり、確かにゴタは芯の強さと表裏一体と言える。著者が本書で注目したのは岩波書店創業者の岩波茂雄アララギ派詩人の島木赤彦という2人のゴタである。頑固な面がある一方で筋道を通すゴタには信頼を置きやすいだろう。とすれば諏訪の地を離れても諏訪人がお互いを重宝して交流を深めるのも自然な成り行きである。信州人の出版ネットワークもこうした交流が土台にあると著者は見る。もちろん諏訪人や信州人ならば誰でも信頼できるというわけではないし、信頼する仲間の紹介を通じて他所の出身者が交流に加わることもある。こうして出来上がった人脈こそが「信州人にとって最も確かな宝」だという著者の指摘は誠に的を得ている。

本書の後半は諏訪人を生んだ諏訪の風土を描き出す。諏訪の地は山に囲まれた盆地になっていて、中心には諏訪湖がある。杖突峠から諏訪を眺めた著者は「ただごとでない風土」を感じたという。古代、奈良の都から蝦夷地へと続く東山道が通る杖突峠ヤマトタケルの東征に思いが至るのは、神話に材を取った映画の作り手である著者らしい。本は諏訪の地形から環境や気候、信仰、風土へと話が続いていく。「繰越汐」や「寒天づくり」などの風景を目の前にして、著者はそれらが風土に馴染んでいて懐かしいと感じるという。心の原風景とも言える光景を数多く諏訪の地に発見したことが、ヨソモノであるはずの著者が諏訪について1冊の本を書き上げるに至った理由なのだろう。風土を生かすことの重要性を説いた三澤勝衛の「風土学」の一端を引きながら本書は締めくくられる。

「アサヒビアリー」ビールとノンアルコールビールのはざま

電車の中吊り広告を見て、これはと思った。目に飛び込んできたのは「ビアリー」という新商品の広告で「微アルコール」を謳っている。アルコール度数0.5%はビールのちょうど10分の1ほど。ビールという英単語「Beer」の語尾に「y」がくっ付いた商品名に「ビールっぽい」というニュアンスを感じる。さすがビール業界のリーディングカンパニー。面白いことを考え出すなあと思う。

さっそく試してみたいと思って近所のスーパーを探したものの、この日は結局見つからなかった。仕方ないので今日はひとまずお預けと思い、ビアリーのウェブサイトをチェックしてみる。ノンアルコールビールが市民権を得てだいぶ時間が経つが、ウェブサイトの説明によるとビアリーはれっきとしたビールの仲間と言えそうだ(写真①)。これは単にわずかとはいえアルコールが入っているからというだけでなく、製法が基本的にビールと同じだからだ。

ホップなど100%ビール由来の原料を使用し醸造した香り豊かなビールから、アルコール分のみをできるだけ取り除く「脱アルコール」製法により作られています。*1

 

 

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写真① アルコール分、製法で分けるとビアリーはビールの仲間

かねてから健康のためにビールをノンアルコールに(時々は)切り替えていたものの、やはりノンアルはまったく別物だと感じていた。そういう身にとって「微アルコール」のビアリーには期待が持てそう。

さて、翌日もまたスーパーへ足を運ぶと今度は「新発売」のポップと一緒に商品棚の大きな空間を占めて並んでいた。ひょっとしたら昨日は見落としていただけなのかもしれない。そう感じるほど周りに溶け込んでいた。さっそく購入する。

実物を見て気づいたのだが、缶には「名称 炭酸飲料」と書かれている。アルコール度数が1%未満の飲み物は酒税法でいう酒類(お酒)に当てはまらないことが理由だ。果汁5%未満のジュースが無果汁と表示しているのと似ている。ともあれ「お酒か否か」で区分するとビアリーはビールではなくノンアルコールビールの仲間と言える(写真②)。

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写真② 酒税法はビアリーをノンアルと同等に位置づける

さて実際に飲んでみての感想は……、ノンアルコールビールと同じだ。ビールではない。「度数の低いビール」を想像して飲むと随分と肩すかしを食う。個人的にノンアルビールには独特の酸味を感じるのだが、ビアリーにもまさに同じ味を覚える。製法よりも酒税法が仕分けの物差しとして適切ということか。写真で言えば①ではなく②のグループ分けがしっくりくる。価格がノンアルコールビールよりも本物ビールに近いことを思うと、今後はあまり買わないかもしれない。

やや残念に思ったものの味覚や嗜好は人それぞれ。わずかであってもアルコールが含まれているので、ノンアルコールビールをまったく物足りないと思う人には試す価値があるはず。不幸にもビアリーは僕に合わなかったけれど何より新しい商品を生み出す企業力には恐れ入った。次は何を出してくるかなと期待しつつ新しい発想の商品を楽しみに待とう。

スーパーキャッシュを知っていますか?

銀行口座を整理しようと思い、しばらく使っていない三菱UFJ銀行の口座を解約してきた。この口座を開設したのは大学3年の春なので実に20年間お世話になったことになる。ただし開設した当時の銀行は三和銀行だった。なぜ20年以上も前のことを覚えているのかというと、1999(平成11)年4月14日に始まった電子マネー「スーパーキャッシュ」共同実験に参加するために開いたのがこの口座だからだ。*1

ある日、ゼミのメンバーの1人が「スーパーキャッシュ共同実験」についての記事を見つけてきた。インターネットを介して「電子マネー」を「チャージ」できる。「バーチャル店舗」で「ディジタルコンテンツ」などの買ったり、「ICチップ」搭載のキャッシュカードを使って「リアル店舗」でも買い物できる。実験期間はおよそ1年間。記事の内容はほとんど理解できず頭がくらくらした。電子マネーという言葉も聞いたことがなかった。当時はもちろんSuicaなど存在せず鉄道定期券はすべて薄っぺらい磁気カード。今でも電子マネーの本質を理解しているかどうか心許ないが、当時は本質どころか「なんか凄そう」という印象があっただけだった。今から振り返ると「バーチャル店舗」という表現に隔世の感があるが、電子マネーという響きに当時は近未来を感じた。

ともあれ、せっかくだからみんなで参加してみようという話になった。「じゃあ各自、今月中に実験参加銀行のどれかで口座開設しておくこと」ひょっとしたら誰かと一緒に口座を開きに行ったのかもしれないけれど、覚えてない。僕が選んだのは三和銀行だった。

スーパーキャッシュをあらかじめチャージしたキャッシュカードを財布に忍ばせて、何度かみんなで新宿にご飯を食べに行った。電子マネーが使えるお店は新宿エリアに限定されていたからだ。大型商業施設を別にすると約1000店舗あるはずのリアル加盟店はなかなか見つからず、いざ見つかっても支払いの段になって「スーパーキャッシュ?何ですか、それ」と不審な表情でお店の人に訊き返されたりする。あたかも「こども銀行」と書かれたお札で支払おうとする人を見とがめるかのように。レジ横には「スーパーキャッシュ加盟店」というシールが貼られているのに……。スーパーキャッシュを「知っている」別の人が対応してくれてようやくほっとする。スーパーキャッシュは使うのに緊張感を伴う電子マネーだった。

うろ覚えなのだが、オンライン店舗での買い物は一度も経験しなかったと思う。いや、何度か試みて、結局うまくいかなかったのかもしれない。専用の「カードリーダー」端末にキャッシュカードを差し込んで使う方式だったように記憶している。インターネットで当時の記事を検索するとカードリーダーの写真も見つかるのだが、「そう、これこれ」と手を打つのではなく「あれ、こんなんだったかな……」と首を傾げてしまう。

結局、夏前にはスーパーキャッシュを使うのをやめてしまった。例の「緊張感」を別にしても、現金やクレジットカードでの支払いと比べて手間がかかったし、何より飽きた。ゼミのメンバー内でもその後、スーパーキャッシュが話題に上ることはなかったように思う。だから翌年になって「実験終了のお知らせ」か何かを受け取った時も「ああ、そういうのあったな」という程度の感想しかなかった。再び電子マネーを利用し始めたのはその翌年か翌々年、JR東日本のSuicaを手に入れてからのこと。もっともSuicaは銀行口座と連動しているわけでもなければ、何か買い物ができるわけでもなかったけれど。

今では電子マネーを「何か得体の知れないもの」と感じる人は少ないだろう。スーパーキャッシュ共同実験を積極的に推し進めてきた人たちにとって今の社会は想像していた通りなのか、それとも想像以上のものか。

*1:実験概要を示すウェブサイトは今でも見ることができる。

オンラインでアートを買う!オークションを利用する3つの方法

絵でも見たいなと思って足を運ぶのは美術館でなくて百貨店のアートブースが多い。なぜかと言うと自分の気に入った作品を買えるから。もちろん財務省(財布)とご相談しての話。美術館で巨匠の名品をじっくりと鑑賞するのは間違いなく心の洗濯になる。でも値札と見比べながらアート作品を眺めるのは格別に楽しい。

言うまでもなく値札の付いたアート作品を見られるのは百貨店に限らない。例えば画廊、ギャラリーはアート作品を売る所なので、当然どの作品にも値段が付いている。もっとも尋ねるまではベールに包まれたままかもしれないけれど。こんな時、値段を尋ねたら買わないといけないんじゃないかという不合理な恐怖感がプレッシャーとなって、結局訊けず仕舞いということもしばしばある。そしてギャラリーに足を踏み入れる前からその恐怖感を合理的に予想して、せっかく来たのに入り口で回れ右ということも珍しくない(店構えで決まる。中が見えないとびびる)。

もう一つの代表格がオークション。実際に参加したことはなくてもテレビやオンラインの動画で様子を見たことがある人は多いだろう。これも会場に足を運ぶとなるとやや腰が引けてしまうかもしれないが、今はオークションのオンライン化が進み、オンラインで入札に参加できるオークションも多い。これならだいぶ気軽だ。

ところで「オークションのオンライン化」と言われると、ヤフオク!などのいわゆるオンラインオークションを思い浮かべるかもしれない。実際にはオンラインで参加できるオークションには色んな種類がある。これはオークションへの参加方法や入札の仕方が運営会社ごとに異なるという意味ではなく、まったく別物と考えられるオークションの種類が少なくとも3つあるという意味だ。具体的には

  1. オンラインだけで品物が取引されるオークションサイト(ヤフオク!など)。いわゆるオンラインオークション。
  2. 「オフライン」でオークションを運営する会社が提供するオンラインオークションのサービス(サザビーズのオンライン・オンリー・オークションなど)
  3. リアルタイムでオンライン入札が可能な「オフライン」のオークション(国内外のオークション会社)

順番に見ていこう。

文脈を抜きにしてオンラインオークションという言葉から真っ先に思い浮かぶのはヤフーやイーベイ(eBay)が運営するオークションサイトだろう(①)。国内のオンラインオークションはヤフオク!の独壇場である(が、フリマという強力なライバルがいてEコマース市場の中では近年押され気味のようだ)。ヤフオク!にも「アート」というカテゴリがあって、実際にあふれんばかりのアート作品が出品されている。ぱっと見た限り、売りに出されている価格帯はさほど高くない。例えば100万円以上の高額商品はあまり見あたらないし、出品されていても落札されることはほとんどないのじゃないかという印象がある。

個人的にもよほど自分がよく知っている作品じゃない限り、ヤフオク!でアートを買おうとは思わない。特に高いお金を払って買うのにはためらいがある。根本にあるのは取引にまつわる不安感だ。偽物だったらどうしよう、疵などがあったらどうしよう、作品が送られてこなかったらどうしよう、などなど。取引の匿名性も不安を高める。

ヤフーは売り手と買い手を結びつけて取引の場(プラットフォーム)を提供するが、成立した取引そのものに対しては基本的に関与しない。Q&Aで実際に「成立した取引についてヤフーはいっさい責任を負いません」と明言している。買い手の立場からすると何かトラブるが生じた際にどこにも問題を持ち込めないという懸念がある。公平のために言っておくと、個人的にいままでヤフオク!で700回くらい売ったり買ったりしてきた中でトラブルが起きたことは一度もない。商品説明にはなかった疵や汚れが品物に付いていたり、あるいは自分が売った品物に首を傾げたくなるクレームが付いたこともあったけれど、メッセージやお金のやりとりでいずれもすぐに解決した。取引結果を星の数で評価するフィードバック制度や買い手が品物を受け取るまで売り手に入金されないといった、「ずる」を防ぐための仕組みがヤフオク!には備わっていてそれらはうまく機能しているように見える。それでもやっぱりアート作品、特に高額のアート作品を購入するのには二の足を踏んでしまう。

サザビーズが運営するオンライン・オンリー・オークション(②)はカテゴリとしては①と同じオンラインオークションに含まれる。つまりここではサザビーズがアート作品を売買するプラットフォームを提供しているということだ。けれども①との大きな違いがある。それは、サザビーズが美術品を扱う専門家集団で(ワインもアートに含めることにしよう)、真贋を来歴まで含めて鑑定しているという点だ。もちろん作品の状態も入念にチェックする。そのうえでサイトに掲載する写真や説明文を専門のスタッフが準備してくれる。つまり単に場所を貸しているだけではなく、もっと行き届いた専門的なサービスを提供しているのだ。それでもやっぱりオンラインはオンライン、実物を事前にじっくりと見ることもできないし、会場で感じて得られる熱気や「情報」がここには欠けている。クリスティーズジャパン社長の山口桂氏が「また50億の作品は、流石にオンラインオンリー(会場でのオークションがないセール)では売れません。」と言うのも頷ける(「クリスティーズジャパン社長・山口桂に聞くアートマーケットの現状と課題」『美術手帖』2020年3月1日インタビュー)。


最後はいわゆるオークションのオンライン化、「オフライン」の会場で開催されているオークションにネット経由で入札できるというスタイルだ(③)。国内外の多くのオークション会社が開催するセールでこの入札方式が可能となっている。インターネットのおかげで生まれた入札方式に見えるし文字どおりの意味では実際に正しいのだが、会場に足を運べない買い手が電話で入札したり、競売人や競売会社の担当者に入札限度額を伝えておいて代わりに競ってもらう委託入札という方法は昔から存在していた。特に電話入札はセールの進行状況がリアルタイムで分かるので、ネット入札とほとんど変わらないと言えるかもしれない(もちろんセールのネット配信ができる時代であることを思えば、優位さで電話入札がネット入札に及ばないことは認めるにやぶさかではない)。原型が昔からあったとは言え、オンライン入札対応という意味のオンライン化がオークション市場を盛り上げているのは間違いないようだ。『東洋経済』2021年2月20日号の特集記事では世界の大手オークション会社の下期の売上高を押し上げた要因としてオンライン化があると分析している(「7兆円アート市場の狂騒」)。

ともあれ、オンラインで参加できるオークションが増えてアート作品を買うための敷居が下がってきたのは事実だ。この機会にぜひアートを観る楽しみにアートを買う楽しみを加えてみるなんてどうだろうか。

結城紬生産と家族構造の関係:湯澤規子『在来産業と家族の地域史』(古今書院)

着物を好きになって色々と調べていると気になるのが「結城紬」。結城市茨城県)と小山市(栃木県)で織られる伝統的な絹織物で、伝統的な生産技術は国の重要無形文化財に指定されている。月並みな感想なのだが実際に着てみるとまずは軽さに驚く。そして暖かい。確かに着心地の良さは抜群で「最後に行き着くのは結城紬」と言う人もいる。

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結城紬大島紬の羽織。結城紬はとにかく軽い

そんな結城紬生産現場を「ライフヒストリー」によって読み解こうとしたのが湯澤規子による『在来産業と家族の地域史』(古今書院、2009年)。この記事では本書の内容を紹介する。

結城紬は昔から特産品(ブランド品)だった。早くも1638年には『毛吹草』で下総土産として結城紬が登場し、1700年頃に全盛を極めたらしい。第2章で著者は結城紬の生産体制が時代とともにどう変わっていったのかを、『結城市史』などの資料を使って概観している。結城地方では文政年間に導入された「高機」がさほど普及せず、「居利機」を用いて紬を織り続けた。また明治期以降も「小規模な農工未分離の農村家内工業」が続いた。これらは結城地方の大きな特徴である。日露戦争期の不況にあっても紬生産は「旧来どおり複合的な生業」の1つであり、地域は「優れた技能を高めることに専念し、生産量は増やさず、高価な紬を生産する」指針を取った。第2次世界大戦後、1956年に国の重要無形文化財として指定されると結城紬の需要は急え、また高級化が進んだ。年間3万反という生産量が維持できた背景には専業機屋の存在が大きい。家族内で「下拵え」「絣括り」ができなくても「貸機」として紬を生産できる。しかし1983年に織り手が減少傾向に転じ、それに連れて生産単数も減少していく。

そんな結城紬は小規模な家族生産に支えられてきた。そこで本書は紬生産における「家族の役割」に注目する。著者が明らかにしたのは、家族構成が結城紬生産に影響を及ぼすという事実である。家族の役割に注目したことが本書の特徴の1つと言える。地理学の分野では「個人・家族」と「産業・地域」の相互関係を解明した研究が多くないく、既存研究では家族内分業の実体が詳細に検討されてこなかったという(6-10頁)。既存研究は「紬生産が農業の副業であること」を強調することが多く、そのため従来から紬生産と農業構造との関連に研究が集中していた。

また資料収集や聞き取り調査を行ない、地理学では珍しい「ライフヒストリーの収集・分析」を研究手法として採用したことは本書のもう1つの大きな特徴だ。この手法は「地域に暮らす一人ひとりの人間像やその暮らしのあり方を地域の問題として捉え直してみたい」(10頁)という著者の目的意識に合致したのだろう。

本書で著者が明らかにした内容は大きく3点あると思う。①複合的な生業の一環として、紬生産は必ずしも零細農家の副業ではなかった。②柔軟性のある家族内分業が紬生産(織り)を可能にした。また分業の柔軟性が生産形態の決め手だった。③高度経済成長期に崩れ始めた生産システムの崩壊が1980年以降の産地衰退につながった。以下で詳しく見ていこう。

鬼怒川流域の結城紬生産地域は農業基盤が脆弱で、零細農家が収入を補うために紬生産を副業としていた。これが先行研究による見方だったという。しかし第3章で論じるように、著者によればこの見方は正しくない。例えば旧絹村では昭和期戦前において平均以上の農業生産性を持ちながらも、紬は主要産品の1つだった。この地域の人びとは農業を含む多種多様な生業を組み合わせて生計を立てており、こうした生業の中で時間や労働力を融通し合えることが重要だった。紬生産はその条件に適する生業の1つだった。

40以上の工程を経て織り上がるといわれる絣紬。紬生産は関連業者(機屋、原料商、染色業、撚糸業、整理業など)の分業で成り立っている。生産機能と問屋機能はそれぞれ農村と市街地に多く、結城紬生産は「都市と農村間の連携によって成立している」。「機屋は農家に多い」という従来からの指摘は不正確で、縞屋(買継問屋)を除く関連業者はどれも複合的な生業によって生計を立てていたし、また生業は農業に限らないと著者は指摘する。この背景には地域の歴史的な経緯がある。鬼怒川水運が衰退する前から人びとは多様な生業を組み合わせて生計を立てていた。複合的な生業構造の中で紬生産が展開していったと著者は論じる(89頁)。

紬生産が家族労働力に依存していることは先行研究でも指摘されていた。本書が明らかにしたのは、紬生産が家族労働力に「どのように」依存しているのかである。紬生産では男性が絣括り、(若年・中年)女性が織り、高齢女性が下拵えを担当する。紬織りを専業機屋と賃機のどちらで行なうのかは、家族内に絣括り・下拵えを担えるメンバーがいるかどうかによって決まった。他方で織り手の作業効率を優先し、家事労働は年齢性別によらず他の家族メンバーが分担した。家族内分業が可能かどうかは紬生産にとって決定的に重要だった(機屋意外の関連業者でも同様)。また家族労働力構成や生業の種類が生産される紬の種類や絣柄を決める要因ともなった。こうした「地域分化」を調整する縞屋の役割が重要だった。

結城紬の生産量が減少し始めたのは1980年である。しかし本書は、それに先立つ高度経済成長期には「生産システム」が徐々に崩壊し始めていたことをライフヒストリー分析によって明らかにした。著者は3つの変化を挙げている。①家計に占める紬織りの重要性が低下して、もはや生業の1つではなくなった。例えば夫が会社勤めで得る給与が主要な生計手段となり、紬織りは「内職的」「パート的」なものへと変わった。②家族内分業が成り立たなくなった。核家族世帯で家事・育児と紬織りを妻が1人で両立することは難しい。③専業的・継続的に従事する人が減り、紬生産の維持・継承ができなくなってきた。「住み込み」による技能継承が崩れ、徒弟制度が維持できないために熟練した技能保持者が再生産されない(185ー187頁)。織り手が高齢化し、かつ減少した。もちろん①~③はすべて相互に関連している。

既存研究が生産地域の存立基盤に影響を及ぼす要因として外部的要因(景気変動、需要変化など)を強調するのに対し、本書は地域や家族の内部的要因の重要性を指摘した(217頁)。

本書は在来産業における家族の役割を論じた研究書としてだけでなく、ライフヒストリーに含まれた貴重な資料として非常に興味深い。結城紬生産の衰退・減少の「内部的(ミクロ)要因」として説得力のある説明を提示している。また、戦時統制や不景気などの外部条件よりも、織子の不足という内部条件が機屋の経営存続を決定づけていたという事実も個人的には意外な発見だった(144頁)。全体として産業分析研究の良書だと思う。

最後に本書の分析が不明瞭と感じる点を挙げておこう。家族内分業に注目する本書は、高度経済成長期に生じた紬生産システムの崩壊を明らかにした。ライフヒストリーを分析した第5章で著者は、家族内分業が失われるなかで賃機が機能しなくなっていくメカニズムをはっきりと提示している。他方で専業機屋における家族内分業の変化とシステム崩壊との関係があまり明瞭に示されていないと感じる。例えば氏家家の事例を通じて著者は、生業に占める紬生産の比重を高め、兼業機屋から専業機屋へと経営形態を変えることで「紬生産に関わる家族内分業の伸縮自在な柔軟性は失われ」たと指摘する(162頁)。しかしこの変化が最終的な結城紬生産の衰退・減少にどう影響するのかははっきりしない(技術継承についての分析は明瞭)。また、「絣括り」のできるメンバーが家族内にいるかどうかが専業機屋としてやっていけるかどうかの決め手だという(比較的明らかな)点をのぞくと、「経営形態の変化に影響を与える諸条件を具体的に考察する」(115頁)ことにはあまり成功していないように見える。