とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

「自動延長」という発明(後編)

「自動延長」という発明(前編)torimakashi.hatenablog.jp


自動延長について「あり」「なし」のどちらを初期設定として提示するかは一見すると些細な違いに感じるのだが、初期設定の違いが出品者による選択率を左右することは十分に考えられる。2017年に行動経済学者のリチャード・セイラーノーベル賞を受賞し、一躍有名になった「ナッジ」を思い出す方も多いだろう。そのため、2009年のシステム変更後、「自動延長あり」のオークションが増えたことに対する驚きはさほどない。それよりも注目したいのは、システムの変更前、自動延長を設定するためには出品者が意識的に「自動延長あり」を選ばねばならなかった頃からすでに、大半のオークションには自動延長が設定されていたという事実の方だ。

わざわざ意識して選んでいるのだから、自動延長を設定すれば落札額が上がると出品者が考えているのは明らかだ。入札期限が延びれば競り合いが活発になる、こう出品者は踏んでいるのだろう。一部の出品者にとって、これは単なる推測を超えた経験測なのかもしれない。開始価格や自動延長の設定を違えてまったく同じ品をいくつも売り出している出品者を何人も見たことがある。彼らは落札額を少しでも押し上げるために試行錯誤していたのだろう。その結果として「自動延長あり」にたどり着いたという可能性も十分にある。


ところでオークションの運営側であるヤフーにも、落札額を高めるには自動延長を設定した方がよいと考えている節がある。自ら試行錯誤を繰り返さねばならない出品者と違って、ヤフーは膨大なオークションデータを解析しながらシステムを設計したり仕様を変更したりできる。出品画面での初期設定を「自動延長あり」に変更してから現在までずっとその状態が続いている。「自動延長あり」の優位性をヤフーが認めていると推測できるゆえんである。

オークションはゼロサムゲームなので、価格が競り上がれば売手が喜ぶ反面、買手の懐は痛む。ヤフーの立場が買手側よりも売手側に近いのは、ヤフーが落札額の一定割合(8%ほど)を手数料として徴収しているからだ。とはいえヤフーが買手の敵だというのではない。買手が離れていってしまえばそもそもビジネスが立ち行かない。


ところが標準的なオークション理論の枠内では、自動延長を設定すれば落札額が増えることをそれほど明快には説明できない。こう考えるのがせいぜいのところだ。

  1. 自動延長による新たな締め切りまでに、品物の価値をもっと高く評価するような買手が現れる。
  2. ビッドの応酬を通じて、当初思っていたよりも品物の価値が高いことが買手に判明する。

どちらも可能性がないではないが、誰もが納得するような説明というほどでもないだろう。最後の最後になって新たな買手が現れることはそうそうないだろうし、現実的に考えて、相手の入札から伝わってくる情報を加味して戦略を練り直すほどの時間的余裕はない。付け加えて言うと、いくつかの仮定をおいたうえで、落札額が自動延長の有無に左右されないことを理論的に示すこともできる。*1


最後に、買手に対するアドバイスをひとつ示しておこう。

理論はどうあれ、自動延長を設定したオークションでは落札額が高くなりがちだ。これはひとえにオークションの終わり近くになって入札する買手が多いということである。実際に「狙い撃ちのススメ」といったアドバイスをしばしば目にする。が、ここではあえてそれとは正反対のことを勧めたい。こうである。

「自分が支払ってもよいと考える金額を早い段階で1回だけ入札する。リマインダー設定も解除してあとはもう放っておく。」*2

スナイパーになれば最後まで競り合えるというのは正しい。しかしその先に待ち受けるのは「後悔」でしかないかもしれない。*3自分の入札が打ち負かされたら対抗せずにいられないのが生身の人間。その結果、落札額が思いもよらない金額にまで上がってしまえばそれこそ「自動延長あり」をえらんだ売手の思わく通りである。狙い撃ちせよというアドバイスはひょっとすると売手による巧妙なわななのかもしれない。

*1:一番重要な仮定は買手の評価値が私的価値であること。つまり品物に対する買手の評価額がライバルたちの入札額に左右されないという前提が必要である。興味がある方は Tsuchihashi (2012) を参照してほしい。

*2:もっとも単純な見方ではヤフオク!は2位価格オークションだということになる。オークション理論によれば、いくつかの仮定のもとでは、品物に対する自分の評価額をそのまま入札するのが「最適」な入札戦略である。これは入札のタイミングを問わない。しかしここでのアドバイスはこうしたオークション理論の知見をもとにしているというよりも、競り合いに巻き込まれないことを目指す「コミットメント」に関するものである。

*3:落札したはよいが結果的に金額が高すぎて後悔するという現象を表す「勝者の呪い」という概念がオークション理論のなかにある。「勝者の呪い」は品物の価値を過大評価することが原因であり、入札競争が過熱して高い金額を支払う羽目になるのとは違う。いま考えている状況は競争の過熱の方である。

「自動延長」という発明(前編)

オンラインオークションでは出品時に入札期限を設定する。ヤフオク!に出品したことがある人はよく知っているだろう。例えば日にちと時間帯を「7月31日21時」というように選ぶと、システムが自動的に「分」を割り振って、オークションの終了時刻が「21時43分」のように決まる。ところが実際には、オークションがこの時刻に終わるとは限らない。出品者がなんらかの事情で入札を予定よりも早く締め切る(早期終了する)可能性が理由のひとつ。そしてもうひとつの理由として出品者が「自動延長」を設定し、入札期限が延びて元々の終了時刻よりもあとにオークションが終わる場合がある。ヤフオク!の例では、オークションの終了5分前以降に新たな入札があると、入札期限が自動的に5分延びる。

「自動延長」という仕組みを発明したのは米アマゾン(Amazon.com)だ。アマゾンは1999年3月30日付けのプレスリリースでオークション・サービスの開始を高らかに宣言した。プレスリリースのなかでジェフ・ベゾスは、アマゾンがオンラインで最大級の顧客グループを抱えている事実を未来の売手にアピールすると同時に、顧客たちには「初めて落札された方全員に10ドル分のアマゾンギフト券をプレゼントする」という気前の良さも見せた。参加者が少なければオークションは成立しないのだ。そしてこのオークションは入札期限が自動的に延びる方式だった。

入札期限が延びる。こう聞くと変な仕組みだと感じるかもしれないが、ファインアートなどを売りに出す伝統的なオークションはまさにこうだ。*1会場内に人を集めて行なうオークションは入札を時間で区切るのではなく、競り合いが終わるまで続く。つまりこの発明によってオンラインオークションは「オフライン」方式に近づいたのだと言える。

オンラインオークションの雄であるイーベイ(eBay)は自動延長の仕組みを採用しておらず、そのせいでイーベイ・オークションは至る所に「スナイパー(狙撃手)」が潜む危険地帯になってしまっていた。スナイパーはオークションの終了間際を狙って入札する「スナイピング(狙い撃ち)」を基本戦略として用いる入札者を指す言葉だ。1999年当時はまだオンラインサーバーの処理能力が今ほど高くなく、短い時間に入札が集中すると取引が正常に処理されない危険があった。イーベイも自身のウェブサイトでスナイピングがリスキーな戦略だと警告していた。「自動延長」のオークションはスナイピングの効果を削ぐため、アマゾンはオークションからスナイパーを追い出すことにかなり成功した。*2

 

前年に米国でオークションのサービスを開始していたヤフー(Yahoo!)は1999年9月28日に日本でもサービスを開始した。オークションの後発組だったヤフーはもちろんこの時点でアマゾンの「発明」を知っており、自身のサービスにもこれを取り入れた。それだけでなくヤフーはシステム設計にひと工夫を加えた。自動延長を設定するかどうか、売手が選べるようにしたのだ。これはアマゾンとイーベイの「良いとこどり」の仕組みだと言える。

 

ひょっとすると、ヤフオク!では終了間際に入札すると自動的に締め切りが延びると思っている人が多いかもしれない。確かにそう思えるほど、ほとんどのオークションには自動延長が設定されている。自動延長を設定する出品者はそもそも多数派だったのだが、2009年を境にして、出品者が自動延長を設定する傾向が強まったように思う。

契機となったのは出品画面のマイナーチェンジだ。自動延長を設定するかどうかについて、2009年以前は「自動延長なし」が初期設定だったのに対し、それ以降は「自動延長あり」が初期設定に変わった。参考として、出品者の選択が変わったことを示す例を1つ挙げよう(図)。ヤフオク!で「ニンテンドーDS」を売りに出したオークションを対象としたデータを見ると、2008年(7月、8月の2か月間)は全体の80%が自動延長を設定したオークションだったのに対し、2011年(3月の1か月間)にはこの比率が9割を超えている。

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自動延長あり・なしをえらんだオークションの割合。2009年の仕様変更後に、自動延長を設定するオークションの割合が増えている。(出典 Tsuchihashi (2012, p. 592) "Sequential Internet auctions with different ending rules," Journal of Economic Behavior & Organization, 81(2), pp. 583--598.)

(後編につづく)

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*1:オークション理論ではこのような伝統的なオークションを競り上げ式、英国式などと呼ぶ。

*2:ここに脚注を書きますアマゾンはその後、B2CやC2Cの取引の場としてアマゾン・マーケットプレイスを整備したが、オンラインオークションからは撤退した。

ダニエル・オーフリ 『患者の話は医師にどう聞こえるのか』みすず書房

本書は医師と患者のコミュニケーションの重要性を訴える本だ。著者の主張を一言で表せば「コミュニケーションは医療に役立つ」。その主張には3つの側面がある。①「医師が話を聞いてくれない」という、患者にとって最大の不満が消え、医療に対する患者の満足度が高まる。②患者をよりよく理解することで、誤った治療や不要な治療をせずに済む。その結果、医師にとって時間の節約になる。③訴訟が減る。

薬の知識や手術の腕前などと比べてコミュニケーションが医療に果たす役割は過小評価されてきたと著者は言う。医学部でコミュニケーションスキルを専門的に学ぶことがないため、医師はコミュニケーションスキルを医療技術とは見ない。コミュニケーションが(たとえプラセボの一種だったとしても)効果的な医学的介入であることを示す研究は多いが、医師は「このようなソフトな研究結果を受け入れがたいと思っている」(106ページ)。

著者によれば実際のところ、現状では医師と患者の間でコミュニケーションがうまくとれていない。その理由は色々だが、例えば①医師が患者の人種・性別・体型などに対して潜在的な偏見を抱いているため、コミュニケーションが阻害される。②診察時間の制約があるため、(時間の無駄と思える)コミュニケーションを医師はためらう。そもそも③医師も患者もコミュニケーションにギャップがあることに気づいていない。(「蒟蒻問答」ようなものになってしまっている。)

ではよりよりコミュニケーションを実現するために何が必要か。本書が重要性を強調するのが「傾聴」である。自分自身は口をつぐみ相手の話を聞く。「熱心に話を聞いてもらう」のは「驚くほど力のわいてくる経験」で、そんな相手とは「かかわりをもちつづけたいという気持ちになる」と著者は自身の経験から断言する。ただしこれは簡単なことではない。聞き手には聞く努力が求められる。実際、患者の話を「上手に」聞くことは「困難きわまりない技術の1つ」なのだ。

本書の中で最も印象的だったのが、オランダでは(終末期にいる患者のみが対象であるものの)患者の話を聞くことが医療として認められているという事実である。傾聴の重要性が医療現場で広く認められていくことを願う。

著者は現役の医師で、本書は医療現場でのコミュニケーションの重要性を論じている。多くの人は患者の立場で医師と接するだろうが、良き患者であるためにも本書の内容は有益だ。また一般的に言って良い人間関係を築くためにコミュニケーションは欠かせない。その意味で本書は誰にとっても役に立つアドバイスに満ちている。幸いな事にコミュニケーションは改善が可能だ。「コミュニケーションは習得が可能な個別の技術に分解できる」(241ページ)と主張する研究を著者は引く。受け答えのなかで言葉遣いや言葉のえらび方を工夫したり、心の持ちようを変えたりすることも大切だ。本書から得られるものは多い。

吉田敏浩『「日米合同委員会」の研究』創元社(「戦後再発見」双書)

日米地位協定については何となく知っている人も多いだろう。米軍人による事件・事故が起きるとその名前を見聞きする機会が増える。しかし地位協定の切り離せない「日米合同委員会」については存在すら知らない人の方が多いかもしれない。しかし民主主義を軽んじ、主権国家としての日本のあり方を蔑ろにするこの委員会については多くの人がその存在を知っておくべきだ。『「日米合同委員会」の研究』は格好の入門書である。以下で本書の内容を紹介していこう。

日本における米軍の法的な地位を定めた「日米地位協定」という協定が存在する。対日講和条約日米安保条約とあいまって、米軍が占領時代に有した特権(基地使用など)を引き続き保障している。日米地位協定の第25条に基づいて権利の内容などを協議する機関が日米合同委員会である。

日米合同委員会での①協議は密室で行なわれる。著者によると②協議は米軍の軍事目的を優先し、しかも③日本の主権を侵すような協議結果がそのまま法律として制定されてしまう。著者の主張を裏付けるのが複数の秘密資料によって存在や内容が明らかになった日米合同委員会での密約である。①から③がはらむ問題点を、具体的な密約の内容に触れながら本書は論じている。

本書は②の原因を合同委員会のメンバー構成に見る。日本側の構成員が官僚であるのに対して米国側は一人をのぞいて全員が軍人である。これは通常の国際競技ではまず見ない組み合わせで、かつては米国大使も「きわめてえ異状なもの」と発言したことがあるくらいだ(27ページ)。米国側からの要求は自然と軍事的観点から出され、米軍の権利を認めさせる内容が重点を占めることになる。

協議とは言いながら、米軍人による強硬な主張を日本側の官僚たちがほぼ受け入れるのが実状だという(4ページ)。当然、協議の結果は日本に不利な内容であり、全貌を国民の目に晒さないために密室協議は好都合な仕組みである。協議の過程や結果が外部に見えず、議事録や合意文書は原則として非公開である。都合の悪い箇所を除いた「概要」のみがウェブサイトに掲載される。文書そのものに対して開示請求をしても判を押したように「不開示決定」がくだされる。

実際、重要事件でない限り米軍関係者を起訴しない(裁判権放棄密約)、米軍関係者に対する民事裁判で米国に不利な情報を裁判に提出しなくてよい(民事裁判権密約)などという密約の全貌を国民が知れば官僚や政府に対する大きな非難が巻き起こるのは避けられないだろう。

時に主権を侵害するような不利な協議結果をなぜ日本側は唯々諾々と受け入れるのか。歴史的に見て、日米合同委員会の初期の協議に「米軍の命令が絶対だった占領体制の影響」があったと著者は分析する(201ページ)。例えば対日講和条約の発効前後に行なわれた米軍機の特権を認めた「航空特例法」に関する協議において、「日本側がアメリカ側の要求に異論を唱えるのは難しかったにちがい」ないと著者は論じる。

日米合同委員会での協議結果ありきの法案がそのまま法律として制定されてしまうの理由の一つは、国会審議の場でも合同委員会での議事録や合意文書が非公開とされているためだ。そうして作られた法律には明確に憲法違反であるものもある(憲法体系とは別の安保法体系が存在する)。

こうした問題点を踏まえたうえで著者の提言は3つある。①日米合同意委員会の全面的な情報公開と国会によるコントロールの確立。②米軍優位の密約や合意事項の廃棄。③日米合同委員会そのものの改廃。

そもそも協議機関に過ぎない合同委員会での「合意」が「日米両政府を拘束する」というのは理に適った話ではない。国会での審議が形だけの追認でしかないとおなればなおさらだろう。また米軍による航空管制のように、航空法による規定がなく、合同委員会の合意だけが根拠となっている特権の存在も不条理である(122ページ)。本書にある以下の記述にはまったく同感である。「対日講和条約の発効で日本は主権を、地位を回復したことになっていますが、はたしてアメリカによる「日本占領管理」は終わったといえるのか。日米合同委員会について調べれば調べるほど、そうした疑問は深まるばかりです。」(218ページ)本書を色んな人に読んでもらい、多くの人にこの問題を考えてもらいたいと思う。

ところで本書の第2章をまるまる充てた「横田空域」の問題点に関して、著者は『横田空域 日米合同委員会でつくられた空の壁」(角川新書)で詳しく論じている。日本では一定の空域に米軍が航空管制を敷いているのだが、同じ敗戦国でありながらドイツとイタリアは米軍の航空管制を認めていないという。主権国家としてはドイツとイタリアのあり方が当然なのだが、それが日本では実現していない。その違いについての論考が興味深かった。こちらも合わせて読んでみるとよいだろう。

学生のレポートと政治家の似ているところ

ここだけの話、小論文やレポートの採点を苦痛に感じることが多い。出来るだけ避けたいとも思う。答案を注意深く読むのにはかなりの忍耐力が必要で、採点するのに長い時間がかかる。「それが仕事なのだろう」というお叱りはもっともで反論の余地はない。それでも心の内でこう嘆きたくなる。本当に苦行そのものなんですよ、と。

答案を読むのにかなりの忍耐力が必要だと書いたが、実は良く書けた答案を読むのに神経を集中させる必要はほとんどない。論旨が明快で理路整然。書き手の言いたいことがすっと頭に入ってくる。お題(問い)に沿った答えがずばりと一文で示されていて、きちんと積み重ねられたれんがのように理由や背景が文中に配置されている。反対に、質問に対する答えがどこに示してあるのか分からなかったり、持って回った書き方で曖昧に答えたり、あるいは題意と無関係な「説明」がとうとうと続いたりすると読むのが難行・苦行へと変わる。いつか悟りを開いた時に、これが精神力を鍛えるための貴重な機会だったことに気付けるのかもしれない。

「ああ、これ苦行の方のレポートと同じだ」『ニューズウィーク日本版』(2021年5月18日号)に掲載された菅首相のインタビュー記事を読んでそう思った(「中国に具体的行動を求める」)。記事の内容がすっと頭に入ってこない理由は記事の書き方が悪いからではない。インタビュアーの質問に対して菅首相が真正面から答えていないのである。読み終えてからも何かが胸につかえている感じが残る。誌面に掲載されているのは取材の「テープ起こし」による全文ではないので、当然、要点を整理して書かれているはずだ。それでも答えが曖昧なのだから、実際のやり取りで首相の答えを理解するのはさぞ大変だっただろう。もしこの記事がレポートの答案だったら大きくペケを付けるなんてことはないけれど、合格点を上げるかどうか迷うところだ。(大学の成績は相対評価だから他の答案の出来によっても変わる。)

例えば日本周辺地域の緊張と安全保障問題が増している原因を尋ねる質問は無視されているし、憲法改正について自身の立場を訊かれて「自民党憲法改正マニフェストに掲げている」と答えるのは変化球的だ。「習近平国家主席を東京に招いて日中首脳会談を行う考えはあるか」という質問に対する答えは「習主席を国賓として招聘できる状況にするには、まずパンデミックの抑え込みに集中しなければならず、今はまだ日程を調整できる段階ではない」これは「イエス」なのか「ノー」なのか。いや恐らく「答えたくない」という答えなのかもしれない。

「強い忍耐力が無ければインタビュアーなんて務まらないんだろうな」誌面の写真に写っているニューズウィークの編集長たちに思わず優しい目を向けた。

質問に正面から向かわず、のらりくらりと答えをはぐらかす。これは政治家にとって必須の何よりも大事だ技能なのかもしれない。揚げ足を取られずに済むというご利益が大きいことは理解できる。でも質問者に何ともすっきりしない、煙に巻かれた感覚を残すことは、大きな損失であることも理解するべきだろう。曖昧な答弁をくり返すような政治家は信頼できないし、ましてやそれが首相だったらリーダーシップを発揮するどころの話ではない。悪文に満ちたレポートと違って「単位を落とす」だけでは済まないのだから。

山本敦久『ポスト・スポーツの時代』(岩波書店)

このところオリンピックが気になる。何もこれは自分だけではないだろうと思うが、オリンピックは今後どうなっていくのだろうなどと考えながら手に取ったのが本書だ。タイトルだけ見てまさにぴったりと感じたのだが、内容は期待していた物とだいぶ違った。概要を紹介しつつ、本書の評価を述べよう。

ポスト・スポーツの時代

ポスト・スポーツの時代

ポスト・スポーツとはスポーツがテクノロジーやデータを取り込んでいく現象である。『マネーボール』を思い浮かべると分かりやすい。本書はまず、近代スポーツとの比較でポスト・スポーツの特徴を豊富な事例によって解説する(1章、2章)。重要な特徴の1つは、「生身の身体」がプレーの主体でなくなることである。

公平性を理念に掲げる近代スポーツは、アスリートが自然かつ生身の身体でプレーすることを前提とする。ドーピングを禁止する理由はここにある。しかし現在、2つの大きな変化によってこの前提が崩れてきていると著者は言う。

まずデータの集計や解析の技術が発展するにつれて、プレーを数値化し、予測することが可能になった。プレーのデータ化や解析が難しいと言われてきたサッカーでも「データ革命」が起きている。データ解析に裏打ちされたプレーに実際のプレーを近づけることを重視する結果、プレートデータの主従が逆転した。実際のプレーはデータ収集のための「素材」に過ぎない。スポーツをプレーする主体が「生身に宿る選手の人格と身体ヘクシス」から「データ化された身体」へと変化してきた(31ページ)。それと同時にデータを介してスポーツとかかわる企業も登場してきた。たとえばSAP社は「ヘリックス」を用いてサッカー・ドイツ代表のトレーニングや戦術強化をサポートした。

次にスポーツの実践において、身体という個体ではなく「前ー個体的」な神経や意識がプレーに及ぼす影響が重視されるようになってきた。たとえばサッカー・ドイツ代表は身体能力ではなく瞬時の認知機能を高めるトレーニングを導入し、実際に効果を上げている(84--88ページ)。この潮流を端的に表すのが運動機能に障害のある人たちによる競技であるサイバスロンや、そもそも身体を使わない競技であるeスポーツといった「前-個体性」のスポーツである。

テクノロジーやデータと結びついたポスト・スポーツの時代は資本主義との関係が深く、公平性は退けられる。データの活用によって偶然性が排除され、予測可能性や再現性といった特徴がポスト・スポーツには顕著に現れる。

1章と2章の内容はスポーツの今後の行方を議論するために非常に有用な論考だと感じる。ところが3章に入ると本書の内容はがらりと変わり、議論の方向も雲行きが怪しくなる。

現代社会とスポーツは「一回性・特異性の出来事が連続する」という意味で共通しており、どちらも柔軟で変幻自在な実践が求められる。このような実践を可能とするのが「ポスト・スポーツ時代の身体」で、知性と身体が結合した現象だと著者は論じる。

社会とスポーツに類似点があるのは確かだとしても、「一回性の出来事に向けて予見的に実践可能性を方向づけていくアスリートの能力は、労働や消費、日常における現代のコミュニケーションのひな形と考えられる」(113ページ)というのはこじつけのように聞こえる。大学教育におけるアクティブ・ラーニングや就職活動で求められるコミュニケーション能力が「知性と身体的実践、精神と身体を切り離せない事象」だとする議論もよく分からない。

多くの人が知性と身体を全くの別物と捉えているが、実際のところ身体は知性と分かちがたく結びついている。ゾーンやフローのような「身体の消失」経験はそのことを示す格好の例である。この主張は理解できるが、野蛮と啓蒙という2つの反対概念が結びつく(「野蛮が啓蒙へと回帰する」)というアドルノたちの議論を持ち出す必要が果たしてあるのか。ポストモダンの作法なのかもしれないが、議論が回りくどいのにもやや閉口する。

3章と比べると4章の議論は分かりやすい。現実のスポーツが一回性・特異性という特徴を持つにもかかわらず、スポーツの観戦者はプレーに「ステレオタイプ」を見いだす。膨大な練習量と高度な戦術がもたらす黒人選手のプレーを「高い身体能力」の結果と解釈するように。さらにメディアや企業のブランディングステレオタイプを強固にする。ステレオタイプの背後に著者は「身体論ナショナリズム」を見る。身体論ナショナリズムは人種差別と結びつくだけでなく、スポーツ観戦の魅力を損なうという著者の指摘には強く共感できる。ただし4章の議論はポスト・スポーツとはあまり関係がないように思う。

5章以降はまた違ったテーマで議論が進む。ポスト・スポーツの意味合いもこれまでとは違う。西洋白人主義の下で生まれた近代スポーツを「スポーツと呼び習わされてきたもの内部」で批判する実践をポスト・スポーツと呼ぶ(216ページ)。人種差別に対するアスリートの身体表現による抗議表明がソーシャルメディアを通じて抗議運動へとつながる。「ネットワークで繋がる諸身体の集合性」(174ページ)である「ソーシャルなアスリート」がポスト・スポーツの重要な特徴だと著者は論じる。

既存のスポーツを批判し多様性を認めていくプロセスをポスト・スポーツとみなす議論は、「生身の身体」からの乖離をポスト・スポーツの大きな特徴だと論じた第1部とまったく無関係ではない。しかし1章の内容からずいぶん遠くまで来たという印象はぬぐえない。

著者がポスト・スポーツという概念を生み出すきっかけとなったという「グリーン・ラボ」の活動を紹介する7章は興味深い。地元の雪山でスノーボードに親しんだスノーボーダーたちが自然環境そのものに関心を向けるようになり、環境問題に取り組んだり農業にいそしんだりする。しかしここでも議論の方向は突飛である。サーフィンやスノボなどを楽しむ「横乗り分化」の担い手は競争原理や勝敗志向よりも自由な感覚を重視するという先行研究を引きながら、「抵抗文化として誕生したスノーボードは、自然との共生やDIY、持続可能なライフスタイルを提起するオルタナティブなスポーツへと変容している」(269ページ)と指摘する。これが近年の新しい潮流だという点は同意するが、何もこれはスノーボードに特有な現象ではないだろう。例えばスキューバダイバーには珊瑚礁や生態系の保護など環境保全の意識が高い人が多い。

本書はポスト・スポーツをキーワードとする体裁を取りながらも「ポスト・スポーツ」という用語の意味が章によってだいぶ違う。そのため本書は全体としてのまとまりを欠く。競技大会やスポーツそのもののあり方を考察するにあたって1章と2章の内容はとても示唆に富む。それだけに、この2つの章だけを1冊の本(新書など)にまとめなかったのが残念に思えてならない。

小倉美惠子『諏訪式。』(亜紀書房)

新作映画のロケで諏訪を訪れた著者が、諏訪に何か恩返しをしたいという思いでまとめたのが本書である。著者を魅了する諏訪とはどのような土地なのか、何がそこまで著者を惹きつけるのか。諏訪の企業や人、風土について諏訪への愛情あふれる筆致で描き出している。

諏訪式。

諏訪式。

「土地にしっかりと根をはり、自らのバックボーンを力として生きている人びと」を著者は「軸足のある人」と呼ぶ。諏訪人は著者のいう「軸足のある人」なのである。軸足のある人によるものづくりは風土に馴染む。「諏訪にあるもの」を主軸に据えているので、諏訪の企業や産業には「ものづくりのDNA」が受け継がれている。その一方で気候環境の厳しい諏訪では、人びとが「自分で考え工夫する力」が求められてきた。熱心に勉強し、創造性を発揮しながら「なんとかやってみよう」とする。3代目武居代次郎が発明した「諏訪式繰糸機」はまさしく勤勉性と創造性の産物で、諏訪の製糸業が地位を向上する契機となった。諏訪のものづくりには「諏訪にないもの」である外来の技術を取り込んでうまく利用するという特徴があるという。この「合わせ技」こそが「諏訪式」なのである。山田正彦が出向で居合わせた小川憲二郎を誘って興した三協精機(オルゴール)や、「諏訪人の熱意と疎開組の技術力」が生んだ諏訪精工舎(腕時計)は合わせ技の威力を物語っている。

合わせ技を成功させるには当事者に強い信念と並々ならぬエネルギーが必要だっただろう。そうでなければ合わせ技は簡単に返されてしまい、地元企業は外来企業にのみ込まれてしまったに違いない。こうした人たちのなかに著者は「ゴタっ小僧」の面影を見出す。ゴタにはやんちゃとかきかん坊といった意味があり、確かにゴタは芯の強さと表裏一体と言える。著者が本書で注目したのは岩波書店創業者の岩波茂雄アララギ派詩人の島木赤彦という2人のゴタである。頑固な面がある一方で筋道を通すゴタには信頼を置きやすいだろう。とすれば諏訪の地を離れても諏訪人がお互いを重宝して交流を深めるのも自然な成り行きである。信州人の出版ネットワークもこうした交流が土台にあると著者は見る。もちろん諏訪人や信州人ならば誰でも信頼できるというわけではないし、信頼する仲間の紹介を通じて他所の出身者が交流に加わることもある。こうして出来上がった人脈こそが「信州人にとって最も確かな宝」だという著者の指摘は誠に的を得ている。

本書の後半は諏訪人を生んだ諏訪の風土を描き出す。諏訪の地は山に囲まれた盆地になっていて、中心には諏訪湖がある。杖突峠から諏訪を眺めた著者は「ただごとでない風土」を感じたという。古代、奈良の都から蝦夷地へと続く東山道が通る杖突峠ヤマトタケルの東征に思いが至るのは、神話に材を取った映画の作り手である著者らしい。本は諏訪の地形から環境や気候、信仰、風土へと話が続いていく。「繰越汐」や「寒天づくり」などの風景を目の前にして、著者はそれらが風土に馴染んでいて懐かしいと感じるという。心の原風景とも言える光景を数多く諏訪の地に発見したことが、ヨソモノであるはずの著者が諏訪について1冊の本を書き上げるに至った理由なのだろう。風土を生かすことの重要性を説いた三澤勝衛の「風土学」の一端を引きながら本書は締めくくられる。