とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

学生のレポートと政治家の似ているところ

ここだけの話、小論文やレポートの採点を苦痛に感じることが多い。出来るだけ避けたいとも思う。答案を注意深く読むのにはかなりの忍耐力が必要で、採点するのに長い時間がかかる。「それが仕事なのだろう」というお叱りはもっともで反論の余地はない。それでも心の内でこう嘆きたくなる。本当に苦行そのものなんですよ、と。

答案を読むのにかなりの忍耐力が必要だと書いたが、実は良く書けた答案を読むのに神経を集中させる必要はほとんどない。論旨が明快で理路整然。書き手の言いたいことがすっと頭に入ってくる。お題(問い)に沿った答えがずばりと一文で示されていて、きちんと積み重ねられたれんがのように理由や背景が文中に配置されている。反対に、質問に対する答えがどこに示してあるのか分からなかったり、持って回った書き方で曖昧に答えたり、あるいは題意と無関係な「説明」がとうとうと続いたりすると読むのが難行・苦行へと変わる。いつか悟りを開いた時に、これが精神力を鍛えるための貴重な機会だったことに気付けるのかもしれない。

「ああ、これ苦行の方のレポートと同じだ」『ニューズウィーク日本版』(2021年5月18日号)に掲載された菅首相のインタビュー記事を読んでそう思った(「中国に具体的行動を求める」)。記事の内容がすっと頭に入ってこない理由は記事の書き方が悪いからではない。インタビュアーの質問に対して菅首相が真正面から答えていないのである。読み終えてからも何かが胸につかえている感じが残る。誌面に掲載されているのは取材の「テープ起こし」による全文ではないので、当然、要点を整理して書かれているはずだ。それでも答えが曖昧なのだから、実際のやり取りで首相の答えを理解するのはさぞ大変だっただろう。もしこの記事がレポートの答案だったら大きくペケを付けるなんてことはないけれど、合格点を上げるかどうか迷うところだ。(大学の成績は相対評価だから他の答案の出来によっても変わる。)

例えば日本周辺地域の緊張と安全保障問題が増している原因を尋ねる質問は無視されているし、憲法改正について自身の立場を訊かれて「自民党憲法改正マニフェストに掲げている」と答えるのは変化球的だ。「習近平国家主席を東京に招いて日中首脳会談を行う考えはあるか」という質問に対する答えは「習主席を国賓として招聘できる状況にするには、まずパンデミックの抑え込みに集中しなければならず、今はまだ日程を調整できる段階ではない」これは「イエス」なのか「ノー」なのか。いや恐らく「答えたくない」という答えなのかもしれない。

「強い忍耐力が無ければインタビュアーなんて務まらないんだろうな」誌面の写真に写っているニューズウィークの編集長たちに思わず優しい目を向けた。

質問に正面から向かわず、のらりくらりと答えをはぐらかす。これは政治家にとって必須の何よりも大事だ技能なのかもしれない。揚げ足を取られずに済むというご利益が大きいことは理解できる。でも質問者に何ともすっきりしない、煙に巻かれた感覚を残すことは、大きな損失であることも理解するべきだろう。曖昧な答弁をくり返すような政治家は信頼できないし、ましてやそれが首相だったらリーダーシップを発揮するどころの話ではない。悪文に満ちたレポートと違って「単位を落とす」だけでは済まないのだから。