とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

山本敦久『ポスト・スポーツの時代』(岩波書店)

このところオリンピックが気になる。何もこれは自分だけではないだろうと思うが、オリンピックは今後どうなっていくのだろうなどと考えながら手に取ったのが本書だ。タイトルだけ見てまさにぴったりと感じたのだが、内容は期待していた物とだいぶ違った。概要を紹介しつつ、本書の評価を述べよう。

ポスト・スポーツの時代

ポスト・スポーツの時代

ポスト・スポーツとはスポーツがテクノロジーやデータを取り込んでいく現象である。『マネーボール』を思い浮かべると分かりやすい。本書はまず、近代スポーツとの比較でポスト・スポーツの特徴を豊富な事例によって解説する(1章、2章)。重要な特徴の1つは、「生身の身体」がプレーの主体でなくなることである。

公平性を理念に掲げる近代スポーツは、アスリートが自然かつ生身の身体でプレーすることを前提とする。ドーピングを禁止する理由はここにある。しかし現在、2つの大きな変化によってこの前提が崩れてきていると著者は言う。

まずデータの集計や解析の技術が発展するにつれて、プレーを数値化し、予測することが可能になった。プレーのデータ化や解析が難しいと言われてきたサッカーでも「データ革命」が起きている。データ解析に裏打ちされたプレーに実際のプレーを近づけることを重視する結果、プレートデータの主従が逆転した。実際のプレーはデータ収集のための「素材」に過ぎない。スポーツをプレーする主体が「生身に宿る選手の人格と身体ヘクシス」から「データ化された身体」へと変化してきた(31ページ)。それと同時にデータを介してスポーツとかかわる企業も登場してきた。たとえばSAP社は「ヘリックス」を用いてサッカー・ドイツ代表のトレーニングや戦術強化をサポートした。

次にスポーツの実践において、身体という個体ではなく「前ー個体的」な神経や意識がプレーに及ぼす影響が重視されるようになってきた。たとえばサッカー・ドイツ代表は身体能力ではなく瞬時の認知機能を高めるトレーニングを導入し、実際に効果を上げている(84--88ページ)。この潮流を端的に表すのが運動機能に障害のある人たちによる競技であるサイバスロンや、そもそも身体を使わない競技であるeスポーツといった「前-個体性」のスポーツである。

テクノロジーやデータと結びついたポスト・スポーツの時代は資本主義との関係が深く、公平性は退けられる。データの活用によって偶然性が排除され、予測可能性や再現性といった特徴がポスト・スポーツには顕著に現れる。

1章と2章の内容はスポーツの今後の行方を議論するために非常に有用な論考だと感じる。ところが3章に入ると本書の内容はがらりと変わり、議論の方向も雲行きが怪しくなる。

現代社会とスポーツは「一回性・特異性の出来事が連続する」という意味で共通しており、どちらも柔軟で変幻自在な実践が求められる。このような実践を可能とするのが「ポスト・スポーツ時代の身体」で、知性と身体が結合した現象だと著者は論じる。

社会とスポーツに類似点があるのは確かだとしても、「一回性の出来事に向けて予見的に実践可能性を方向づけていくアスリートの能力は、労働や消費、日常における現代のコミュニケーションのひな形と考えられる」(113ページ)というのはこじつけのように聞こえる。大学教育におけるアクティブ・ラーニングや就職活動で求められるコミュニケーション能力が「知性と身体的実践、精神と身体を切り離せない事象」だとする議論もよく分からない。

多くの人が知性と身体を全くの別物と捉えているが、実際のところ身体は知性と分かちがたく結びついている。ゾーンやフローのような「身体の消失」経験はそのことを示す格好の例である。この主張は理解できるが、野蛮と啓蒙という2つの反対概念が結びつく(「野蛮が啓蒙へと回帰する」)というアドルノたちの議論を持ち出す必要が果たしてあるのか。ポストモダンの作法なのかもしれないが、議論が回りくどいのにもやや閉口する。

3章と比べると4章の議論は分かりやすい。現実のスポーツが一回性・特異性という特徴を持つにもかかわらず、スポーツの観戦者はプレーに「ステレオタイプ」を見いだす。膨大な練習量と高度な戦術がもたらす黒人選手のプレーを「高い身体能力」の結果と解釈するように。さらにメディアや企業のブランディングステレオタイプを強固にする。ステレオタイプの背後に著者は「身体論ナショナリズム」を見る。身体論ナショナリズムは人種差別と結びつくだけでなく、スポーツ観戦の魅力を損なうという著者の指摘には強く共感できる。ただし4章の議論はポスト・スポーツとはあまり関係がないように思う。

5章以降はまた違ったテーマで議論が進む。ポスト・スポーツの意味合いもこれまでとは違う。西洋白人主義の下で生まれた近代スポーツを「スポーツと呼び習わされてきたもの内部」で批判する実践をポスト・スポーツと呼ぶ(216ページ)。人種差別に対するアスリートの身体表現による抗議表明がソーシャルメディアを通じて抗議運動へとつながる。「ネットワークで繋がる諸身体の集合性」(174ページ)である「ソーシャルなアスリート」がポスト・スポーツの重要な特徴だと著者は論じる。

既存のスポーツを批判し多様性を認めていくプロセスをポスト・スポーツとみなす議論は、「生身の身体」からの乖離をポスト・スポーツの大きな特徴だと論じた第1部とまったく無関係ではない。しかし1章の内容からずいぶん遠くまで来たという印象はぬぐえない。

著者がポスト・スポーツという概念を生み出すきっかけとなったという「グリーン・ラボ」の活動を紹介する7章は興味深い。地元の雪山でスノーボードに親しんだスノーボーダーたちが自然環境そのものに関心を向けるようになり、環境問題に取り組んだり農業にいそしんだりする。しかしここでも議論の方向は突飛である。サーフィンやスノボなどを楽しむ「横乗り分化」の担い手は競争原理や勝敗志向よりも自由な感覚を重視するという先行研究を引きながら、「抵抗文化として誕生したスノーボードは、自然との共生やDIY、持続可能なライフスタイルを提起するオルタナティブなスポーツへと変容している」(269ページ)と指摘する。これが近年の新しい潮流だという点は同意するが、何もこれはスノーボードに特有な現象ではないだろう。例えばスキューバダイバーには珊瑚礁や生態系の保護など環境保全の意識が高い人が多い。

本書はポスト・スポーツをキーワードとする体裁を取りながらも「ポスト・スポーツ」という用語の意味が章によってだいぶ違う。そのため本書は全体としてのまとまりを欠く。競技大会やスポーツそのもののあり方を考察するにあたって1章と2章の内容はとても示唆に富む。それだけに、この2つの章だけを1冊の本(新書など)にまとめなかったのが残念に思えてならない。