とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

スザンナ・キャラハン『なりすまし』亜紀書房

著者には脳炎を精神病と誤診された過去がある。危うく精神病棟に移送されかけたが、別の医師が脳炎を見抜き、事なきを得た。なぜ簡単に誤診が起きてしまうのか? 精神病とはいったい何なのか?  著者は自身の体験から、こう問い続けた。脳疾患と精神疾患の境目について調べていく内に、著者がたどり着いたのは「ローゼンハン実験」だった。

ローゼンハンと実験協力者は、統合失調症の症状を偽って訴え、精神病棟への入院を果たした。入院後、自分たちの症状が「回復」するまでの経緯と精神病棟の現場における実態を詳細に記録した。研究成果は「狂気の場所で正気でいること」という論文に結実し、権威ある学術誌である『サイエンス』誌に掲載された。

1つの重要な事実はローゼンハンたちが偽患者として入院を易々と果たしたことで、ローゼンハン実験は「正常」と「異常」の区別が付かないことを端的に示したのだった。科学的な診断基準が確立していない精神医学はその他の医学領域と大きく異なる。正確な判断が付かないならば、誤診が蔓延するのもむしろ当然といえる。

ローゼンハン実験は著者が探し求めていた答えを与えてくれるものだ。この実験を知り、著者はきっと快哉を叫んだことだろう。

精神医学の闇を白日の下に晒したのはローゼンハンの功績と言える。その一方で著者は、ローゼンハン実験の罪を弾劾する。ローゼンハン実験以後、社会全体が精神医学を敵視する傾向が強まり、精神衛生システムに予算をまわすのをためらいがちになった。結果、精神科医や病院が減った。「入院のためには演技が必要で、入院したければ、自分が危険な存在だということを提示するか、著しく心身の機能が損なわれている状態が必要とされる」(327ページ)状況が実現するに至った。ローゼンハンたちが入院のために演技を必要としたことを思えば何とも皮肉な結果である。「病人の行き着く先は病院でなく刑務所」となった。

著者の議論にはうなずける所も多いが、この「罪の告発」はいささか大げさであるようにも思う。ローゼンハン以前から精神医学に対する不信感は社会に根強く、ローゼンハン実験はいわば最後の藁に過ぎないように感じられる。『サイエンス』の権威が絶大とはいえ、1本の論文が社会をまったく変えてしまうとは、私には考えられない。

ところで、本書のドラマは上記とは別の所にある。

著者はローゼンハン実験に感銘を受け、実験の詳細を知りたくなった。そして、実験について詳しく調べていく内に、衝撃的な事実が明らかとなっていく。ローゼンハン実験にはデータの捏造があり、それどころか、論文中で言及されている偽患者のほとんどについて、その実在が確認できないのだった。ローゼンハン実験から30年以上も経つので、確認しようがない情報も多い。それでも、隠された証拠から真実に迫っていく本書には、どこか推理小説のような趣がある。