とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

カビール・セガール(小坂恵理)『貨幣の「新」世界史』早川書房

本記事ではカビールセガールによる『貨幣の「新」世界史』の内容を紹介して、感想を書いておこう。

本書の内容
お金に対する理解を深めたいという著者の思いから本書は生まれた。確かにお金とは不思議な物である。私たちが普段の生活で当たり前のように受け入れている1万円札には、実際に1万円の価値があるわけではない。しかしほんの何十年かさかのぼれば、貨幣は額面分の「金(ゴールド)」と交換が保証されているという意味で、実体としての価値を備えていた。前者を不換紙幣(本書の用語ではソフトマネー)、後者を兌換紙幣(同じくハードマネー)という。本書はハードマネーからソフトマネーへと続く通貨の歴史を簡潔に紹介している。

本書が扱うテーマは通貨の歴史だけではない。単なる交換手段を超えて貨幣が私たちに対して持つ意味合いが、心理学や神経科学の知見や宗教をとおして分析されている。一般的に言って私たちはお金が好きだが、これはお金が「進化本来の目的に直接役立つわけではないが、生存に欠かせないものとして脳に刻み込まれている」からだ。また、お金が私たちの意志決定に大きな影響を及ぼすことが脳のスキャン画像から分かる。だからこそ既存の宗教は、人々がお金に惑わされないように「(お金が)少ないほどよい」「足るを知る」という精神的論理を強調する。

4人の古銭収集家に取材した最終章は、本書のなかで最もオリジナリティーにあふれていて面白い(が、残念なことにこの章が1番短い)。著者は彼らに「自分の国の象徴として、最もふさわしいコインを教えてください」と問いかける。読みながら、さて日本を1番よく表している硬貨はなんだろう?と自分でもつい考え込んでしまう(戦後の復興を象徴する東京五輪1000円硬貨なんかどうだろう)。

これは貨幣についての本なのか
このように本書の内容は幅広い。幅広いことは悪いことではないが、本書は内容に統一感を持たせることに成功しているとは言い難い。そのせいで、全体的に著者が勉強したことの寄せ集めのような内容になってしまっている。

本書の第1章は植物の光合成や生態系における共生関係を「交換行為」ととらえながら、エネルギーを貨幣の一種と見る。また、交換行為が協力関係の1つだという見方を紹介したうえで、ゲーム理論や進化論によって協力関係が進化的に安定しやすいことを説明する。

多くの取引――物やサービスの交換――に貨幣は欠かせない。つまり、貨幣は交換取引の重要な媒介手段なのだが、光合成におけるエネルギーの移動を持ち出されると、こじつけが過ぎるという印象を受ける。著者は貨幣について多くを学ぶ中で「お金は価値のシンボルだという定義にたどり着いた」という。この定義にどう照らしても、生態系での共生関係は貨幣と無関係だろう。

また、第2章の大半は伝統的な経済学と新しい経済学(行動経済学や実験経緯学、神経経済学など)の違いを説明するのに充てられている。人々の「非合理的」な行動を、行動経済学は伝統的な経済学よりもうまく説明できることが多い。本書でもにおわせているように、2008年の金融危機が「経済学の失敗」の結果であるならば、行動経済学や神経経済学の発展によって、今後は危機の発生を防げるかもしれない。こういった内容はともかく、やはり本章も貨幣についての考察とはあまり関係ない。経済学も金融もお金と関係すると言えばそれは正しいけれど、少なくとも貨幣についての理解が深まることはなさそうに思える。

内容が不正確なのでは
著者が「はじめに」でこう述べている。

本書は一般的な理論を深く降り下げるわけではないし、従来と異なるユニークな見解を紹介するわけでもない。巻末の文献で紹介したすばらしい方々の努力の成果を一冊にまとめたものである。

膨大な文献を渉猟し、分野を横断して1冊の本を上梓するのは大変な作業だっただろう。しかし、そういった文献を正しく読み込めていないと思える記述がしばしば見られる。いくつか例を挙げよう。

第2章では協力が当事者に便益をもたらすことを、アクセルロッドによる繰り返し囚人のジレンマ実験に言及しながら議論を展開していく。しかしゲーム理論を仕事で使っている身からは、囚人のジレンマについての不正確な記述がやはり気になる。「[対戦相手が協力と裏切りの]どの選択肢をとるか、お互いにわからないところがジレンマに陥る所以だ」(50ページ)と著者は書くが、これはまったく正しくない。相手の選択肢が分かったとしても、個人の観点からは「裏切り」を選ぶことが常に最適であり、それによって得られる結果が「双方が協力する」ことで得られる便益よりも低い。そのことを理解していても裏切っていまうことが「ジレンマ」なのである。

貨幣の将来を論じた第6章では、世界の大半では決済手段として現金が使われているというマスターカードの報告書を取り上げて、その例として6700万枚しかクレジットカードが発行されていない中国に言及している(2013年)。しかしこの時点で中国はすでにモバイル決済が主流であって、現金はあまり使われていなかった。

本書が取り上げている多くの分野について、よく知っている人が読めば内容の不正確さが気になるという点が他にもあるのではないだろうか。

評価:「交換」をキーワードにした連想ゲームのような本
ジャレド・ダイアモンドによる『銃・病原菌・鉄』以来、様々な分野を横断的に多くの文献を渉猟して書かれた書物が世間でもてはやされる傾向があるように思う。それ自体は問題ではないが、単なる知識の羅列以上ではないような本が増えているような気がする。本書もその1つだろう。色んな分野の文献を横断的に読み込んで1冊の本を書き上げるのは大変だっただろう。けれども著者の労力は必ずしも、本に対する評価に反映されるべきとは言えない。本書が取り上げたテーマについては専門家によって書かれた良書が多く存在している。それらは本書でも随所で言及がある。その意味で、本書は良い文献案内になっていると言えるかもしれない。