とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

津川 友介『世界一わかりやすい 「医療政策」の教科書』医学書院

本書の目次には「医療経済学」「医療経営学」「医療倫理学」といった見出しが並び、「医療政策学」が分野横断的な学問であることが読み取れる。分量でいうと「医療経済学」(1章)と「統計学」(2章)で全体の60%を占めるので、この2つが大きな柱だということなのかもしれない。

医療経済学の理論的な柱はミクロ経済学だが、経済学部の学生が最初に学ぶ価格メカニズムには軸足が置かれていないようだ。「医療経済学は医療における『市場の失敗』を学ぶ学問」(15ページ)であり、価格メカニズムがうまく機能しない状況を分析対象とする。そのうえで「市場の失敗」を未然に防ぐための方策を議論する。つまりメカニズムデザイン(制度設計)の応用分野と言える。ここでのキーワードは「逆選択」「リスク選択」「モラルハザード」。いずれも契約理論を基礎とするメカニズムデザインのモデルではお馴染みの概念である。

ただし本書を読む限り、数学的に緻密な理論モデルを追究するのではなく、医療費や保険加入率、健康アウトカムなどに焦点を当てながら実証研究に力点を置くのが医療経済学の特徴だと思える。エビデンス重視なのだ。

例えば重要な実験・擬似実験として本書は「ランド医療保険実験」と「オレゴン医療保険実験」の2つに言及する。ランド実験によって、医療保険料の自己負担率が上がると医療機関の受診率が下がるものの(事後のモラルハザードを抑制する)、貧困層を除いて健康アウトカムにはほとんど影響がないことが分かった。この実験結果は保険料の自己負担を正当化する根拠のひとつとなっている。興味深いのは、自己負担率が上がっても人びとは健康に気を遣うようにならない(喫煙率や肥満度には影響がない)点である。事前のモラルハザードは解決されない。

本書には、実験や擬似実験、メタ分析から分かったエビデンスがたくさん紹介されており、そうした研究の重要性を感じさせてくれる。個人的に興味深いと思ったエビデンスの例を挙げておこう。

  • 医療費増加の最大の要因は医療技術の革新であって高齢化ではない。
  • 医師の人数や病床数といったストラクチャー指標を改善しても、患者の健康状態はさほど改善しない。

もちろん、ひとつのエビデンスが国や地域、時代を超えて他の状況に当てはまるかどうかは分からない。この点には注意が必要だ。

オバマケアからトランプケアへ」と題された第8章は、米国の医療制度についてのケーススタディとして読める。皆保険制度を持たない唯一の先進国である米国で、オバマ大統領は公的保険と民間保険を組み合わせ皆保険を達成しようと試みた。柱は3本ある。貧困層向けのメディケイドを拡大し(加入要件の緩和)、マーケットプレイスと呼ばれる民間医療保険市場を設立し、さらに民間医療保険への加入を義務化した(未加入者に対して増税する)。

医療経済学の知見に照らしてオバマケアは巧妙に設計されている。①医療保険への加入審査を禁止することで「リスク選択」を解消し、保険料にも制限を加えた。さらに民間医療保険会社の利益率に上限を設けた。②医療保険加入を義務化することで逆選択を緩和し、加入者数の増加が医療保険の売上高を押し上げる。民間医療保険会社にとっては①②によって利益の増減のバランスがとれ、制度が受け入れ可能となる。

③公的保険から医療機関への支払いを減らす。医療機関は反対しそうだが、無保険者が減ることで医療費の支払い不能者も減る。また新しく保険に加入した人は受診するようになる。それによって医療機関は受け入れた。医療機関への支払いを減らすと同時に、高所得者層への増税によって財源を確保した。(制度の導入によって高所得者の負担だけが増したように見えるが、より良い社会の実現によって彼らも間接的に制度の恩恵を受けるのかもしれない。)個人的には、財源に対する両者の寄与率を知りたいところだ。民間医療保険会社の利益率に上限を設けた。

オバマケアは巧みな仕組みに思えるのだが、無保険者の数が減ったことを除くと思ったほどの効果は得られていないようだ。P4Pによって医療の質の改善が見られた範囲は限られているし、医療費に対する制度の影響はあまりよく分からない。

医療制度にまつわる諸々の学問分野について1冊で学べる本書はありがたい存在だ。ただしページがあまり割かれていない領域については、別途、入門書などを読んで議論を補うとよいだろう。例えば医療倫理学だったらグレッグ・ボグナー、イワオ・ヒロセによる『誰の健康が優先されるのか-医療資源の倫理学』(岩波書店)を薦めたい。

オバマケアの内容と評価について本書の解説は非常に分かりやすかった。同じように、日本の医療制度についての解説と提言を本書に含めて欲しかった。(日本の医療制度について書かれた本はすでにたくさんあるので、著者はあえて省いたのかもしれない。)医療経済学の内容について明らかに書き間違えていたり、誤字脱字(タイポ)が多い点は本書の評価を下げることにはならないと思う。が、文章の読みやすさも含め、次に刷る時に修正してもらえると期待している。