とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

孫崎享『戦後史の正体』(戦後再発見双書)創元社

「戦後再発見」双書のシリーズ1冊目。「戦後史」は文字通り、第2次世界大戦以後の歴史という意味だが、本書が焦点を当てるのは「日本外交」だ。「日本は米国に従属する」という米国の方針の下、米国は戦後の日本外交に関する絶大な影響力を持ち続けた。こうした「米国の圧力」に対して、日本には「自主」「対米追随」という2路線が存在する。本書は戦後史を理解するために「2つの路線のせめぎ合い」という枠組みを提示する。

2つの路線はシーソーのように行ったり来たりするのだが、それが如実に現れるのが首相・外相の顔ぶれだ。実際に、自主派・追随派が交互に首相を務めている。しかし、自主派は劣勢に立たされがちだ。というのも、自主路線が広く支持を集めそうな場合、米国が陰に陽に「自主」の切り崩しに介入するからである。本書の大半は、首相の交代劇と、それを後押しする米国の裏工作の実例を示す事に充てられている。

本書を読んで否応なく気付くのは、米国の対日政策が米国の国益(日本ではなく)に基づくという至極当然の事実だ。日本の経済力を脅威と見なせば、米国は国際協定に反してでも日本を潰しにかかる(297ページ)。軍事力の維持に固執する米国が日本を軍事戦略に組み込み、本来は民間投資に使えるはずのお金が軍事費に振り向けさせられた結果、日本の経済力は著しく凋落した(314--315ページ)。こうした経験を踏まえ、日本は独立国として自国の国益を踏まえて外交その他の舵取りを行なう必要があるのだ。

しかし、事実として、占領時代に作られた「日本が米国の保護国である」という状況が現在も続く。その背後にある無視できない要因が、「対米追随」路線のシンボル・吉田茂講和条約締結(1951年)後も首相を続けた点である。本書はこれを「日本の最大の悲劇」(56ページ)だと嘆く。

これとは別に、現状が変わらない理由として著者が指摘するのは、現在の外務省や外務官僚の姿勢だ。例えば、1951年当時の外務省は、米軍の日本駐留について新安保条約に条件などを明記するよう米国に求めた。著者はこの点を高く評価するが、これは米国にただ追従するだけの現在の外務省・外務官僚に対する批判の裏返しである。

「つまり、「米軍駐留に関する規定を安保条約の本文のなかに書き入れ、日本の国会や国民にきちんと判断してもらおう」という考えが外務省にはあったのです。このあと当たり前になってしまう「協定や合意文書という形で米国と密約を結び、国民の目の届かないところで運用してしまおう」という姑息な考えは、当時の外務官僚はもっていなかったのです。」(118ページ)

日本にとって米国の存在は大きい。そうした現状を理解した上で、著者は「力の強い米国に対して、どこまで自分の価値をつらぬけるか」が重要であると言う。これは政治家や官僚だけでなく、国民1人1人が十分に肝に銘じておく言葉ではないだろうか。

「1990年代に入り、米国は「同盟国に公平さを求めれば、米国自体が反映する」という時代ではなくなりました。米国は露骨に自己の利益をゴリ押しするようになり、それを黙って受け入れる相手国の首相が必要になってきたのです。米国にとって理知的な首相はもう不要となり、ことの是非は判断せず、米国の言い分をそのまま受け入れる首相が必要になったのです。」(325ページ)

歴代首相の中で安倍首相が最長の在任日数を記録したことの意味がよく分かると言えよう。

マンスキー『データ分析と意思決定理論』ダイヤモンド社

政策には分析と意思決定という2つのステージがある。専門のアナリストが政策を分析・評価し、それに基づいて政治家が政策を決定する。政策は景気対策かもしれないし、感染症対策かもしれない。いずれにせよ「理想的な世界」では最も有効性の高い政策が選ばれ、実行に移される。

しかし現実社会は不確実性に満ちており、理想的な世界とは程遠い。アナリストの分析は信頼できないかもしれず、政府が適切な政策を選ぶと期待するのも難しい。

本書は2部構成で、前半が分析、後半が選択について政策に関する問題点を議論している。どちらも鍵は不確実性である。

アナリストは政策を分析し、効果を点予測として示すことが多い。「失業率が1%下がる」「所得が20%増える」などが点予測の例だ。点予測によって、次のステージでの政策決定は易しくなるが、こうした点予測を著者は「信頼が置けない」と切り捨てる。なぜなら点予測の背景には多くの強い仮定があるからだ。仮定が分析の正確性を高めるならまだしも、「分析のしやすさ」が大きな理由だということもしばしばある。著者の懸念は何より、同じデータを使っても、仮定の置き方次第で分析結果を正反対に導くことができてしまう点である(「死刑制度は犯罪率を抑える」「死刑制度は犯罪率を高める」)。本書では点予測の背後にどのような仮定を置いて分析しているのかが、具体例を多く用いて説明される。仮定を許容できるかどうかについての議論も示される。

仮定の強さと政策分析の信頼性との間にはトレードオフがある。強い仮定を置いた分析は信頼性を犠牲にしているのだ。このトレードオフを踏まえ、著者は信頼性の高い分析を高く評価する。それが弱い仮定を置いて導かれる区間予測である。もちろん区間予測には政策の比較が難しくなるというデメリットもある。2つの政策から示された予測の区間が重複する場合、どちらの政策を選ぶべきなのか決めるのは難しい。点予測が政治家や一般の人々に好まれる理由もこの点にある。しかし不確実性に満ちた社会では不確実性を受け入れることこそ誠実な態度だ、と著者は示唆していると私には思える。

政策の効果に幅がある場合、選択に関する意思決定は難しくなる。状況によって、政策Aが望ましいこともあれば、政策Bが望ましいこともあり、どちらの状況が起こるのかは前もって分からないからだ。そのため、政策決定には何らかの基準が必要である。著者は3つの選択基準(期待厚生基準、マキシミン基準、ミニマックス・リグレット基準)を紹介するが、ここでも重要な事実を教えてくれる。基準が変われば選ばれる政策も違ってくるのだ。

どの基準もそれぞれ、強力に擁護する派閥がある。しかし本書はいずれかの基準を推奨するという立場を取らない。著者はこう主張する。意思決定理論の分野においてある基準が圧倒的に良いとは言えないはずであり、不確実な世界において政府ができることは「最適な政策」ではなく「妥当な政策」を選ぶことにしか過ぎない。

以上の論点では不確実性が問題の原因だった。しかし政策決定において、意思決定者が一人ではなくグループになると、不確実性が減ったとしても合意に至れない可能性がある。第2部の後半はこの点も議論される。

著者は、政策分析に目を通すすべての人に贈りたい注意と助言だとして、こう書いている。

アナリストが分析結果について不確実性があることを表明しているのか否か、どのように表明しているのかを吟味し、あたかも確実であるかのように主張されている分析結果については疑ってかかるべきだ(314ページ)

私たち全員が肝に銘じておくべき注意と助言だろう。これは政策分析だけでなく、ニュースやSNSを通じて流布される多くの言説に対しても有益だろうと私は思う。

ところで個人的には、区間予測の優位性を主張する前半と比べて後半の第2部はやや物足りないと感じた。前半のインパクトが大きいからなのかもしれない。「オッカムの剃刀」に対して著者が疑問を投げかける場面では、読んでいてはっとした。「単純さ」が基準として優れていは当然だと思い込んでいたのだが、確かにその理由を問われると答えに詰まる。「他を一定として」という前提条件を暗黙の裡に仮定(!)していたのかもしれない。政策は実行にあたって費用や便益を考慮するのが普通だが、その視点からの議論は本書から除かれている。後半の第2部に章を割くこともできただろうと思う。全体を通していくつかの主張を色んな論拠で補強していく本書は内容が理解しやすい。記述も平易で分かりやすい。

ドン・クリック(上京恵)『最後の言葉の村へ』(原書房)

「言葉がどのように消えるのか」を調べるために、人類学者である著者が選んだのはパプアニューギニアにあるガプンという小さな村だった。著者は1985年から2014年まで7回、延べ3年間をこの村で過ごし、村の言葉であるタヤップ語が消えゆく様を目の当たりにした。

パプアニューギニア公用語であるトク・ピシンがガプン村に入ってきたのは20世紀に入ってからのことだ。現在ではタヤップ語は廃れ、村人の多くはトク・ピシンを話す。著者は時系列で3つの要因を示している。

  1. 20世紀の初頭、プランテーションから戻った出稼ぎ労働者が村人にトク・ピシンの基本を教えた。基本を学んだ村人がプランテーション労働に従事しながらトク・ピシンに磨きをかけ、帰村後に若者へトク・ピシンを広めた。
  2. 第二次大戦中、日本軍が村人を暴力的に熱帯雨林へ追い立て、トク・ピシンを話せない高齢者が大勢死んだ。その結果、トク・ピシンを流暢に話す人々の割合が一気に増えた。
  3. 戦後、キリスト教の宣教師たちが村や周辺地域へやって来て、キリストの教えをトク・ピシンで伝えた。村人はキリスト教に改宗した。

流暢なトク・ピシン話者はお互いの意思疎通のためだけでなく、子供に語り掛けるのにもトク・ピシンを使った。著者が初めてガプン村を訪れた1980年代半ばには、タヤップ語を母語としない最初の世代が育ちつつあった。タヤップ語は「1980年代に突然、そして決定的に終わりを迎えた」。

とはいえ、そうした非ネイティブの若者もタヤップ語の会話を聞いて完全に理解することができる。話す能力には個人差があるものの、きわめて流暢に操れる若者もいる。著者が驚いたのは、タヤップ語の運用能力がどれほど高くても人前ではタヤップ語を使わないという事実だった。

こうした「消極的能動的バイリンガル」がタヤップ語を話さない理由は2つある。

  1. タヤップ語が乳幼児のわがままな頑固さ、女の短期さ、先祖の古臭くて野蛮な生き方といったネガティブなイメージと結びついている。
  2. 若者がタヤップ語を少しでも間違えると年長者が必ず批判するため、若者はタヤップ語を話して「恥をかきたくない」と考えている。

理由がどうあれ、人前で話されず、親が教えることもないタヤップ語はいずれ消えてしまう。

著者はこう書く。

「話者の年齢層が低くなって言語能力が低下するにつれて、タヤップ語の幅広い時制は消滅し、文法上の性の一致はいいかげんになる。最も幼く最も流暢さに欠ける話者は、主語や目的語に応じて動詞を正しく活用する能力を持たなくなる。あらゆる動詞が同じように活用されるようになり、タヤップ語の語彙はトク・ピシンの単語に置き換わる。」(207頁)

「言語は縮小することによって消滅する。タマネギの皮をむくように複雑さの層がはがされていき、どんどん小さくなって、ついには何も残らなくなる。最初に消えるのは宇宙的な神話や不明瞭な親戚関係を表す難解な単語だ。……それらは、言語の最も威厳ある面、最も崇高な面、最も貴重な面を象徴している。」(169頁)

隣接する村がそれぞれ自分たちの言葉を持つというパプアニューギニアの状況を目の当たりにして、言語学者はこう結論づけた。彼らは「近隣の人々と異なる存在でありたい」と願い、異なる言語を使うことで自己を他者と区別したのだ、と。それが正しいならば、タヤップ語を失ったガプンの村人は「ガプン人」としての標識を1つ失うことになる。

このことはガプン人、あるいはガプンに固有の文化や伝統の消え始めを示す不吉な兆しのようにも見える。実際、言語の喪失は文化の喪失につながる、と一般的には考えられがちだ。例えば植民地政策として現地人に宗主国の言葉を話すよう強いるのはそのためである。しかしガプン村では、タヤップ語の消滅によってガプンの文化が大きく変容していったのではなく、順番は逆なのだと著者は言う。

世界や歴史に関する特定の知識という点では、かつてガプンに固有だったものの大部分はタヤップ語が衰えはじめるよりずっと前に消滅していた。(297頁)

このような状況において、言語が消滅するとき実際に消滅するのは、すっかり破壊された文化の最後に残ったかけらである。(298頁)

プランテーション、日本軍、キリスト教など)外的要因が何であれ、タヤップ語の消滅はガプンの人々が「話さない」ことを選んだ結果である。言語消滅は社会現象なのであり、絶滅危惧言語は絶滅危惧種とは違うという著者の指摘には目を啓かされる。

言語が消えるのは、成熟して勢いを失ったからでも、より広い音韻体系や豊かな構文を持つ獰猛な言語に滅ぼされたからでもない。人々が話さなくなるからだ。(39頁)

本書は学術書ではなく、言語消滅についてのルポルタージュである。いや、「言語消滅についての」というのは正しくない。タヤップ語の文法についての説明や、「言葉がどのように消えるのか」という問いに対する著者の考え(答え)が色んな所に登場するものの、多くは現地での生活やガプンの人びととのやり取りがつづられている。ガプン村と西洋の食文化の違いを披歴したエピソードには腹を抱えたし、若者たちのラブレターは世界中どこでも似たようなものなのだなと親しみを覚えた。

著者は、ガプン人たちとの違いを知ることが自分を高めてくれるという考え方を傲慢だと指摘しながらも、ガプン人たちから学んだことを本書で披露してくれている。そして我々が本書から学べることは多い。

津川 友介『世界一わかりやすい 「医療政策」の教科書』医学書院

本書の目次には「医療経済学」「医療経営学」「医療倫理学」といった見出しが並び、「医療政策学」が分野横断的な学問であることが読み取れる。分量でいうと「医療経済学」(1章)と「統計学」(2章)で全体の60%を占めるので、この2つが大きな柱だということなのかもしれない。

医療経済学の理論的な柱はミクロ経済学だが、経済学部の学生が最初に学ぶ価格メカニズムには軸足が置かれていないようだ。「医療経済学は医療における『市場の失敗』を学ぶ学問」(15ページ)であり、価格メカニズムがうまく機能しない状況を分析対象とする。そのうえで「市場の失敗」を未然に防ぐための方策を議論する。つまりメカニズムデザイン(制度設計)の応用分野と言える。ここでのキーワードは「逆選択」「リスク選択」「モラルハザード」。いずれも契約理論を基礎とするメカニズムデザインのモデルではお馴染みの概念である。

ただし本書を読む限り、数学的に緻密な理論モデルを追究するのではなく、医療費や保険加入率、健康アウトカムなどに焦点を当てながら実証研究に力点を置くのが医療経済学の特徴だと思える。エビデンス重視なのだ。

例えば重要な実験・擬似実験として本書は「ランド医療保険実験」と「オレゴン医療保険実験」の2つに言及する。ランド実験によって、医療保険料の自己負担率が上がると医療機関の受診率が下がるものの(事後のモラルハザードを抑制する)、貧困層を除いて健康アウトカムにはほとんど影響がないことが分かった。この実験結果は保険料の自己負担を正当化する根拠のひとつとなっている。興味深いのは、自己負担率が上がっても人びとは健康に気を遣うようにならない(喫煙率や肥満度には影響がない)点である。事前のモラルハザードは解決されない。

本書には、実験や擬似実験、メタ分析から分かったエビデンスがたくさん紹介されており、そうした研究の重要性を感じさせてくれる。個人的に興味深いと思ったエビデンスの例を挙げておこう。

  • 医療費増加の最大の要因は医療技術の革新であって高齢化ではない。
  • 医師の人数や病床数といったストラクチャー指標を改善しても、患者の健康状態はさほど改善しない。

もちろん、ひとつのエビデンスが国や地域、時代を超えて他の状況に当てはまるかどうかは分からない。この点には注意が必要だ。

オバマケアからトランプケアへ」と題された第8章は、米国の医療制度についてのケーススタディとして読める。皆保険制度を持たない唯一の先進国である米国で、オバマ大統領は公的保険と民間保険を組み合わせ皆保険を達成しようと試みた。柱は3本ある。貧困層向けのメディケイドを拡大し(加入要件の緩和)、マーケットプレイスと呼ばれる民間医療保険市場を設立し、さらに民間医療保険への加入を義務化した(未加入者に対して増税する)。

医療経済学の知見に照らしてオバマケアは巧妙に設計されている。①医療保険への加入審査を禁止することで「リスク選択」を解消し、保険料にも制限を加えた。さらに民間医療保険会社の利益率に上限を設けた。②医療保険加入を義務化することで逆選択を緩和し、加入者数の増加が医療保険の売上高を押し上げる。民間医療保険会社にとっては①②によって利益の増減のバランスがとれ、制度が受け入れ可能となる。

③公的保険から医療機関への支払いを減らす。医療機関は反対しそうだが、無保険者が減ることで医療費の支払い不能者も減る。また新しく保険に加入した人は受診するようになる。それによって医療機関は受け入れた。医療機関への支払いを減らすと同時に、高所得者層への増税によって財源を確保した。(制度の導入によって高所得者の負担だけが増したように見えるが、より良い社会の実現によって彼らも間接的に制度の恩恵を受けるのかもしれない。)個人的には、財源に対する両者の寄与率を知りたいところだ。民間医療保険会社の利益率に上限を設けた。

オバマケアは巧みな仕組みに思えるのだが、無保険者の数が減ったことを除くと思ったほどの効果は得られていないようだ。P4Pによって医療の質の改善が見られた範囲は限られているし、医療費に対する制度の影響はあまりよく分からない。

医療制度にまつわる諸々の学問分野について1冊で学べる本書はありがたい存在だ。ただしページがあまり割かれていない領域については、別途、入門書などを読んで議論を補うとよいだろう。例えば医療倫理学だったらグレッグ・ボグナー、イワオ・ヒロセによる『誰の健康が優先されるのか-医療資源の倫理学』(岩波書店)を薦めたい。

オバマケアの内容と評価について本書の解説は非常に分かりやすかった。同じように、日本の医療制度についての解説と提言を本書に含めて欲しかった。(日本の医療制度について書かれた本はすでにたくさんあるので、著者はあえて省いたのかもしれない。)医療経済学の内容について明らかに書き間違えていたり、誤字脱字(タイポ)が多い点は本書の評価を下げることにはならないと思う。が、文章の読みやすさも含め、次に刷る時に修正してもらえると期待している。

吉田敏浩『日米戦争同盟』河出書房新社

2010年代に入ってから日本ではきな臭い動きが続いている。市民の知る権利を侵害し、監視社会へとつながる恐れのある特定秘密保護法が2013年12月13日に成立した。平和主義を体現していた武器禁輸を廃止し、2014年4月1日に「防衛装備移転三原則」を閣議決定して日本は武器を輸出できるようになった。2015年9月19日に成立した安保法によって集団的自衛権の行使が認められ、自衛隊が世界中どこででも米軍とともに戦闘を行なえるようになった。日本弁護士連合会は新安保法が憲法に反すると指摘するとともに、特定秘密保護法の廃止を求めている。

一連の動きの背後には米国の強い働きがある。日米同盟はいまや戦争同盟にほかならず、日本がいま再び「戦争のできる国」になりつつあることを著者は憂慮する。

新安保体制には「平和」の文字がちりばめられているが、海外派兵の本質は戦争への加担であり平和とはほど遠い。軍備拡大も同じである。沖縄戦の体験者が語るように「軍隊は住民を守らない」し、「基地があったから戦場になった」。「戦争で犠牲を強いられるのは民間人」だという事実も、私たち一人ひとりが覚えておくべき歴史の教訓である。

本書で著者は、戦争の加害者となってはならないと強く説く。著者にはこの思いを強く自覚する経験があった。かつて日本が侵略したアジア諸国で現地の人びとから日本の「加害の歴史」を何度も聞かされた。部隊を率いて村人を殺した「キャプテン・ヨシダ」が著者の父親なのではないかと問われ、著者は言葉につまり、顔がこわばった。「再び「日本戦争」と呼ばれるような戦争を繰り返してはならない」。これはすべての日本人が共有すべき思いではないだろうか。

しかし現在の日本では、本人が望まないままに戦争へ加担させられてしまうことがある。自衛隊の海外派兵には民間企業の軍事支援業務が欠かせない。すでにイラク派遣やインド洋派遣の実績がある。これらの企業では、業務命令を通じて労働者が米軍への戦争協力に組み込まれている。しかも、彼らが現地でテロや事故に遭っても国や自衛隊が責任を取ることはなく、補償もないのだという(99ページ)。著者はこれを「事実上の動員体制」だと指摘する。

戦争では多くの民間人が殺される。米国大統領を始め、戦争指導者や軍人は戦争での死傷者を「やむを得ない犠牲」というひと言で片づける。この言葉が発せられる時、被害者の一人ひとりが生身の人間であるという事実は忘れられている、あるいは意識的に遠ざけられている。イラク空軍に参加した米軍パイロットに対して、空爆した時の気持ちを著者が尋ねた場面がある。このパイロットの返事は印象的だ。「ただ仕事をするだけです。任務を果たすということ、それだけで、ほかのことは考えません」。この答えに憤慨する人もいるだろう。しかし実は、私たち自身が日米同盟のもとで戦争に加担している事実を忘れてはならない。彼らは日本の領空で空爆のための訓練を積み、日本が提供した米軍基地から多くの人を殺しに向かう。今後はそれに自衛隊の日本人が加わることも可能性としてあるだろう。

海外派兵をして他国の人びとを殺傷してしまうことの罪深さ。それを日本人はアジア・太平洋戦争の歴史を通じて学んだはずだ、と思いたい。しかし、戦争の被害の記憶のほうが勝り、加害者意識と罪責の念は薄いのが、あるいは無関心なのが、戦後一貫した日本の現実である。(118ページ)

自分と同じ人間を殺す戦争には直接間接を問わず加担してはならない。本書のメッセージはこれに尽きる。戦争に反対し、日本を「戦争のできる国」にしないと強く決意することが重要である。「国際平和を誠実に希求」する多くの人に本書を手に取ってもらいたい。

アンドリュー・リー(上原裕美子)『RCT大全』みすず書房

エビデンスに基づく」というフレーズが流行り言葉になって久しい。政策や意思決定の効果を数量的に検証して得られた結果が「エビデンス」だが、数量的な検証と言ってもさまざまだ。本書のタイトルにもある「RCT」はランダム化比較試験の略で、良質なエビデンスを得るためにはRCTが欠かせないというのが著者の立場だ。

RCTを使ってエビデンスを得るとはどういうことか。こんな例を考えてみよう。職業訓練プログラムに参加しなかった求職者と比べて、参加者の就職率が有意に高かったことが分かったとする。さて、このプログラムには就職率を高める効果があったと言えるだろうか。必ずしもそうは言えない、というのが答えである。そもそも職探しに熱心な求職者だからこそ、職業訓練プログラムに参加したのかもしれないからだ。*1ではプログラムの効果を正しく測定するにはどうすればよいか。プログラムに参加するかどうかを求職者にえらばせるのではなくランダムに割り当てる。そのうえで参加者(介入群)と不参加者(対照群)について就職率の違いをみればよい。これがRCTを用いた評価の基本的なアイデアである。

医療の分野にルーツをもつRCTだが、これを活用できる領域は広い。医療・教育・経済についての政策や、ビジネスにおける意思決定を評価することもできる。実際、著者が本書で紹介するRCTは多岐にわたる分野で実施されている。

先ほどの例から分かるように、RCTを使うと単なる相関関係ではなく因果関係を知ることができる。これは得られるエビデンスの質が高いことを意味する。またRCT評価の強みとして、著者はシンプルさを強調する。ここで引くのは経済学者ジュディス・ゲロンのことばである。曰く、「分析の基本は誰でも理解できます。小難しい統計処理はありません」(69ページ)。RCTによって「堅固かつシンプルなエビデンス」を引き出せるのだ。

本書で著者はRCTの魅力を伝えると同時に、まだまだRCTが活用されていない現状を憂いてもいる。著者によれば、印象的な逸話や人間の直感を頼りに政策が導入されたり、表面的な比較に終始する質の低い評価に基づいて効果を判断されたりすることが多い。人間の直感は大してあてにならないと著者は警鐘を鳴らす。実際に「世間一般に受け入れられた常識をRCTが覆した例」は多い。長年、犯罪率の低下に寄与していると思われていた米国の「刑務所見学プログラム」によって、犯罪発生数がむしろ増えていたという事実が発覚したのはその一例だ。あるいは、途上国で貧困を減らすのにマイクロクレジットがさほど効果的ではないことも、RCTを実施して分かった。効果の低い政策を実行するための予算にはもっと別の使い道がある。RCTを用いた高品質の評価によって政策をふるい分けていくことが、より良い社会の実現につながる、そう著者は述べる。

本書の主眼はRCTの魅力を読者へ伝えることにある。しかし当然、RCTには欠点も批判もある。本書を読む限り、RCTを実施するために大きなコストがかかること、RCTを実施できる範囲が限られていること、この2点を著者はRCTの主なデメリットと考えているようだ。

過去に実施されたRCTには多くの被験者、多額の費用、長い期間といったコストを伴う大規模なものも多い。しかし常にこれらが必要というわけではないし、RCTによる評価によって無駄な政策への支出が減らせるのであれば、RCTにかかるコストは十分に報われる。著者は2つめの欠点をより大きな問題だと考えている。限られた範囲の被験者を対象としたRCTの結果は、類似するほかのどんな状況にも当てはまるというわけではない。*2例えば米国で効果を認められた政策が日本でも効果を発揮するとは限らない。また対象者の規模が大きくなると、思ったような成果が得られないこともある。一方で「結果の解釈には慎重に臨むべし」と述べつつ、他方で経済学者アンガス・ディートンのことばを引いて「他の状況に一般化可能な仮説」が見つかる「最善の実験」を行なうのが望ましいという。*3また経済学を初め、社会科学で実施される「実験室実験」よりはRCTの外的妥当性は高い、と読める記述もある(第10章)。

著者によれば、「対照群を設けるRCTは非倫理的である」「対照群をくじでえらぶのは不公平である」という批判が最も多いようだ。これらに対して著者はこう反論する。

評価の対象となるプログラムに効果があるのかどうかは分からない。そもそも効果を知るためにRCTを行なうわけであり、(プログラムからもれた)対照群が必ずしも損な役回りを演じるとは限らない。また、時期をずらして導入するようなプログラムでは全員がいずれは対象となるので、「倫理的でない」という批判は当たらない。さらに「公平性を欠くという理由でRCTを拒否するのは、先進諸国で教育機関への入学や、住宅バウチャーや医療保険の割り当て、さらに投票順序や徴兵の決定にくじが利用されている現実と矛盾する」(204ページ)。どちらも妥当な反論だと私(レビュアー)には思える。

政府が税金を投入して実施する政策の背後には説得力のあるエビデンスがあるべきだ。そして良質なエビデンスを提供する手段としてRCTはとても強力い。本書の重要なメッセージである。より多くの政策がRCTによって評価される世の中は、著者の言うように「より良い社会」だろうと私(レビュアー)も思う。RCTの有用性を伝える本書をぜひ多くの人に読んでもらいたい。他方で本書がはらむ、RCTが万能に近いと錯覚させる危うさには注意も必要だろう。RCTを実施できない状況も存在するし、またRCTの結果をどこまで一般化できるのかという外的妥当性は、本書で言及されている以上に実は複雑な問題だ。本書では触れられていないが、RCTに対する批判はほかにもある。こうした論点については例えば、経済セミナー編集部による『新版 進化する経済学の実証分析』(日本評論社)などを合わせて読むことを勧める。

*1:これを「識別問題」という。

*2:「外的妥当性」が低いかもしれない。

*3:もっとも、反RCTの旗印を掲げるディートンはおそらく違った文脈でこう発言したのだろうと私は思う。

前泊博盛(編著)『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』創元社(「戦後再発見」双書2)


治外法権にもとづく不平等協定が、現在の日本における混迷の根源である。」

本書は「戦後再発見」シリーズの2冊目で、「日米地位協定」の内容や問題点をQ&A形式で解説するPART1と、外務省で地位協定の運用マニュアルとして書かれたという機密文書「日米地位協定の考え方」を紹介するPART2の二部構成である。編著者の前泊博盛は『琉球新報』で記者・論説委員長を務めた人で、現在は沖縄国際大学で教鞭を執る。専門は沖縄経済や日米安保論である。

日米地位協定は米軍の日本での法的な地位を定めている。この協定に根拠があればこそ、外国軍隊である米軍は日本国内に基地を保有し、訓練などを行うことができる。ところがこの協定には重大な欠陥があり、その欠陥からさまざまな問題が生じている。問題がなぜ起きるのか。本書は具体的な事例を取り上げながらその原因を論じる。

まずは本書の主張をまとめておこう。

治外法権にもとづく不平等協定

日米地位協定は「治外法権にもとづく不平等協定」であり、「いかなる場合も米軍の権利が優先する」という特徴をもつ。米軍が駐留するドイツ・イタリア・韓国などが米国と結んでいる同様の協定と比べても、日米地位協定は著しく不平等である(188頁)。

たとえば、地位協定第2条によって、米軍基地は日本国内にありながら日本の国内法が適用されない。そのため基地は事実上、米国の領土となってしまっている。すべての米軍基地がイタリア軍司令官のもとにおかれているイタリアとは状況がまったく違う。また、地位協定第4条によって、米軍が基地の土壌などを汚染しても、返還時に米軍はそれを元通りに(原状回復)する義務がない。「環境条項」のある米韓間の協定と対照的だ。

地位協定が引き起こすさまざまな問題

不平等で米軍優先の地位協定は、実際に多くの問題を引き起こしている。

刑事裁判権について定めた地位協定第17条には、「公務外で罪を犯した米兵について、日本側が起訴するまでは、犯人の身柄を米国側は引き渡さなくてもよい」といった内容のくだりがある。起訴するためには犯人を取り調べて証拠を集める必要がある。しかし日本側は基地に逃げ込んだ犯人を逮捕できない。結果としてこの犯人は罪に問われずに済む可能性が高い。この条項によって「女性をレイプしようと、自動車で人をひき殺そうと、米兵が正当な処罰を受けずに終わるケースが多発する」(142頁)。

この条項は米兵による犯罪の誘因を高める。2012年10月に起きた米兵(海軍)2人によるレイプ事件はこの典型例である。著者はこう書く。

「このふたりの米兵は、早朝に女性をレイプしたその日、グアムに移動する予定になっていました。そのタイミングをねらって犯行におよんだことは、ほぼまちがいありません。米兵が日本で女性をレイプしても、基地に逃げこんで飛行機に乗ってしまえば、まず逮捕されることはない。身柄を確保して、とり調べを行なって事件を捜査することが不可能になるからです。」(142頁)

(彼らを16日未明に集団強姦致傷容疑で逮捕できたのは幸運だったと言える。)

同じく地位協定17条によって、日本側は基地の内外を問わず、米軍の財産を捜索したり差し押さえたりできない。米軍が17条を盾に取って米軍ヘリを「財産」だと主張すると、警察も含めて日本側は事故現場へ立ち入ることができなくなる。2004年8月13日に沖縄国際大学のキャンパスで起きたヘリコプター墜落事件では、「事故直後、隣接する米軍普天間基地から数十人の米兵たちが基地のフェンスを乗り越え、事故現場の沖縄国際大学構内になだれこんだ」うえで、「事故現場を封鎖し、そこから日本人を排除」した(30頁)。当然、事故原因を調べることはできず、米軍に過失があったのかどうかを知ることも不可能である。

民事裁判権について定めた地位協定18条によると、民間人に対する損害について米軍のみに責任がある場合でも、日本側には25%を賠償する義務がある。1998年5月に確定した第1次嘉手納基地爆音訴訟の損害賠償金は15億4千万円、横田・厚木も含めると賠償金の総額は25億2千万円にのぼる。つまり、日本は自らに原因のない騒音に対して、6億円ほどを支払う義務が生じた。ところが実際には、米軍の負担額を日本が全額(19億円ほど)立替えて以降、米軍は支払いを踏み倒したまま1円も日本に支払っていない(85--86頁)。

さらに日米地位協定に基づいて定めた「航空特例法」によって、アメリカ本国では実施できないような住宅地での危険な低空飛行訓練を米軍は日本で行なっている。

問題を悪化させる密約のかずかず

「日米合同委員会」による密室協議で決まったかずかずの「密約」が問題を悪化させている。公務と無関係に(基地の外で)罪を犯した米兵に対して、協定17条は日本側に一次裁判権があると定めている。ところが密約によって、著しく重要な事件以外は日本が裁判権を放棄することになっている。実際、「米兵の公務執行妨害や、文書偽造、詐欺、恐喝、横領、盗品など」の「基礎率は、なんと『0%』。つまり不起訴率100%。まったく罪に問われていない」(76頁)。

安保条約、地位協定の改廃は可能か

多くの問題をはらんでいるにもかかわらず、日米地位協定の改廃は実現的に見て難しい。「日米地位協定の考え方」を上梓した元外務官僚の口から出た「改定はありえない」という言葉が、著者には非常に印象深かったという。「遠まわりかもしれない」と前置きしたうえで著者はこう指摘する。地位協定を改定するためには、不平等・不条理な日米安保条約地位協定、沖縄の基地問題アメリカ人の関心を向けさせること、そして改定を支持する世論を形成することが不可欠である。著者の念頭にあるのは米軍による沖縄での暴政を暴いたフランク・ギブニーの「沖縄-忘れられた島」だ。ギブニーの記事は米国内で議論を呼び、沖縄の占領統治を終わらせるきっかけになったという。

仮に日本から米軍が撤退した場合、日米関係が悪化し、安全保障上の問題が生じることを懸念する声がある。しかし著者は実際に米軍が撤退したフィリピンを例に挙げながら、この懸念が必ずしも正しくないと指摘する。撤退後もフィリピンと米国の関係は特に悪化しているわけでもなく、米比相互防衛条約はそのまま存続している。他方で、フィリピンからの米軍撤退が中国による南沙諸島の実効支配を招いたという見方がある。しかし中国が得たのは広いエリアの中の小さな島ひとつのことで、この見方は事実とはおよそかけ離れていると著者は反論する。

本書を読んでの感想、評価

日米地位協定について知りたいと考える人にとって、本書はうってつけの入門書だ。付録として掲載された地位協定全文とその解説、PART2で取り上げた「日米地位協定の考え方」による解釈の説明は非常に有用である。またPART2で描かれた「考え方」の全文公表に至るまでのエピソードは、新聞記者としてこのスクープに直接かかわった編著者ならではものだろう。全文を入手してから実際の報道までにかかった7年という年月の長さが、スクープにかかわった人たちの意欲と情熱を伝えてくれる。

他方で本書全体に流れる感情的なトーンが、ひょっとしたら読者を白けさせてしまうかもしれない。編著者は地位協定の前身である「日米行政協定」を「講和条約や安保条約には書き込めない、もっと属国的な条項を押しこむための『秘密の了解』」(60頁)であり、地位協定を「アメリカが占領期と同じように日本に軍隊を配備し続けるためのとり決め」(17頁)だと見なす。そして地位協定が「現在の日本の混迷の根源」(61頁)だと断言する。こういった見方を大げさだと感じたり、地位協定原発問題が同根であるとの議論をこじつけだと思ったりする読者も少なくないだろう。書き方を変えれば無用の反発を減らせただろうにと、個人的にはやや残念に思う。もっとも多くの人が地位協定や安保条約の問題点を理解せず、そもそも地位協定の存在すら知らないという現状を踏まえれば、編著者はあえていらだちを隠さずに問題を論じたのかもしれない。

本書が広く大勢の人に読まれることを望むが、同じ問題を扱いつつも調子を抑えて書かれた、吉田敏浩さんの手による以下の2冊の書籍を薦めたい。1冊目は本書と同じシリーズに収められている『「日米合同委員会」の研究』。もう1冊が『日米戦争同盟』(河出書房新社)である。どちらも地位協定を含めて、関連する問題を広く知ることができる。