とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

ドン・クリック(上京恵)『最後の言葉の村へ』(原書房)

「言葉がどのように消えるのか」を調べるために、人類学者である著者が選んだのはパプアニューギニアにあるガプンという小さな村だった。著者は1985年から2014年まで7回、延べ3年間をこの村で過ごし、村の言葉であるタヤップ語が消えゆく様を目の当たりにした。

パプアニューギニア公用語であるトク・ピシンがガプン村に入ってきたのは20世紀に入ってからのことだ。現在ではタヤップ語は廃れ、村人の多くはトク・ピシンを話す。著者は時系列で3つの要因を示している。

  1. 20世紀の初頭、プランテーションから戻った出稼ぎ労働者が村人にトク・ピシンの基本を教えた。基本を学んだ村人がプランテーション労働に従事しながらトク・ピシンに磨きをかけ、帰村後に若者へトク・ピシンを広めた。
  2. 第二次大戦中、日本軍が村人を暴力的に熱帯雨林へ追い立て、トク・ピシンを話せない高齢者が大勢死んだ。その結果、トク・ピシンを流暢に話す人々の割合が一気に増えた。
  3. 戦後、キリスト教の宣教師たちが村や周辺地域へやって来て、キリストの教えをトク・ピシンで伝えた。村人はキリスト教に改宗した。

流暢なトク・ピシン話者はお互いの意思疎通のためだけでなく、子供に語り掛けるのにもトク・ピシンを使った。著者が初めてガプン村を訪れた1980年代半ばには、タヤップ語を母語としない最初の世代が育ちつつあった。タヤップ語は「1980年代に突然、そして決定的に終わりを迎えた」。

とはいえ、そうした非ネイティブの若者もタヤップ語の会話を聞いて完全に理解することができる。話す能力には個人差があるものの、きわめて流暢に操れる若者もいる。著者が驚いたのは、タヤップ語の運用能力がどれほど高くても人前ではタヤップ語を使わないという事実だった。

こうした「消極的能動的バイリンガル」がタヤップ語を話さない理由は2つある。

  1. タヤップ語が乳幼児のわがままな頑固さ、女の短期さ、先祖の古臭くて野蛮な生き方といったネガティブなイメージと結びついている。
  2. 若者がタヤップ語を少しでも間違えると年長者が必ず批判するため、若者はタヤップ語を話して「恥をかきたくない」と考えている。

理由がどうあれ、人前で話されず、親が教えることもないタヤップ語はいずれ消えてしまう。

著者はこう書く。

「話者の年齢層が低くなって言語能力が低下するにつれて、タヤップ語の幅広い時制は消滅し、文法上の性の一致はいいかげんになる。最も幼く最も流暢さに欠ける話者は、主語や目的語に応じて動詞を正しく活用する能力を持たなくなる。あらゆる動詞が同じように活用されるようになり、タヤップ語の語彙はトク・ピシンの単語に置き換わる。」(207頁)

「言語は縮小することによって消滅する。タマネギの皮をむくように複雑さの層がはがされていき、どんどん小さくなって、ついには何も残らなくなる。最初に消えるのは宇宙的な神話や不明瞭な親戚関係を表す難解な単語だ。……それらは、言語の最も威厳ある面、最も崇高な面、最も貴重な面を象徴している。」(169頁)

隣接する村がそれぞれ自分たちの言葉を持つというパプアニューギニアの状況を目の当たりにして、言語学者はこう結論づけた。彼らは「近隣の人々と異なる存在でありたい」と願い、異なる言語を使うことで自己を他者と区別したのだ、と。それが正しいならば、タヤップ語を失ったガプンの村人は「ガプン人」としての標識を1つ失うことになる。

このことはガプン人、あるいはガプンに固有の文化や伝統の消え始めを示す不吉な兆しのようにも見える。実際、言語の喪失は文化の喪失につながる、と一般的には考えられがちだ。例えば植民地政策として現地人に宗主国の言葉を話すよう強いるのはそのためである。しかしガプン村では、タヤップ語の消滅によってガプンの文化が大きく変容していったのではなく、順番は逆なのだと著者は言う。

世界や歴史に関する特定の知識という点では、かつてガプンに固有だったものの大部分はタヤップ語が衰えはじめるよりずっと前に消滅していた。(297頁)

このような状況において、言語が消滅するとき実際に消滅するのは、すっかり破壊された文化の最後に残ったかけらである。(298頁)

プランテーション、日本軍、キリスト教など)外的要因が何であれ、タヤップ語の消滅はガプンの人々が「話さない」ことを選んだ結果である。言語消滅は社会現象なのであり、絶滅危惧言語は絶滅危惧種とは違うという著者の指摘には目を啓かされる。

言語が消えるのは、成熟して勢いを失ったからでも、より広い音韻体系や豊かな構文を持つ獰猛な言語に滅ぼされたからでもない。人々が話さなくなるからだ。(39頁)

本書は学術書ではなく、言語消滅についてのルポルタージュである。いや、「言語消滅についての」というのは正しくない。タヤップ語の文法についての説明や、「言葉がどのように消えるのか」という問いに対する著者の考え(答え)が色んな所に登場するものの、多くは現地での生活やガプンの人びととのやり取りがつづられている。ガプン村と西洋の食文化の違いを披歴したエピソードには腹を抱えたし、若者たちのラブレターは世界中どこでも似たようなものなのだなと親しみを覚えた。

著者は、ガプン人たちとの違いを知ることが自分を高めてくれるという考え方を傲慢だと指摘しながらも、ガプン人たちから学んだことを本書で披露してくれている。そして我々が本書から学べることは多い。