とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

軍縮を望む世界と軍拡を望む各国-囚人のジレンマ-

中国軍の侵攻で台湾軍は崩壊する」(『ニューズウィーク日本版』 2020.9.29号)という記事を読んで思わずため息が出た。近年、軍事費を大幅に削減した台湾を激しく非難する内容の記事だ。中国軍の侵攻という脅威を傍目に、現状の台湾軍では太刀打ちできないという危機感からこの記事は書かれていて、その指摘は一理ある。受け入れがたいのは、眼前の危機に対処するべくとにかく軍拡が必要という記事の論調である。軍備拡大が必要とされる状況であってもあくまで軍拡は「必要悪」なのであって、本来、軍事力は小さくあるべきなのだ。記事を読み終えて、軍事費(防衛関係費)を年々増やしている日本も他人事ではないなと不安な気持ちになった。

 

www.newsweekjapan.jp

 

軍拡は安全保障問題を解決してくれない-安全保障のジレンマ-

 

国際政治学や安全保障学に「勢力均衡論」という考え方がある。単純化すると、2つの大国が軍事力で拮抗していればそれらの国同士で戦争は起きないという考え方だ。勢力均衡論に即して言えば、米ソの冷戦が戦争へと発展しなかったのは、両国が同じ程度の軍事力を備えていたからである。それによって世界平和が(ある程度)保たれていたわけだ。

 

この考え方について注目したいのは、軍事力が均衡していることが重要なのであって、その規模は問われないという点である。軍事力を金額で表せるとして、両国が100兆円規模の軍事力を備えている場合も、規模が1兆円程度の場合と何ら変わらないのである。いくら軍備拡大を続けても一向に安全とならないこの現象は「安全保障のジレンマ」と呼ばれていて、勢力均衡政策におけるもっとも重要な問題の1つである。

 

そうであれば各国の軍事力は小さい方が誰にとっても望ましいはずである。小さな軍事力、つまり軍事費が安くすむのであれば政府は社会保障や教育など他の分野に資金を回すことができる。これは世界中のどの国にとってもあてはまる。端的に言って、軍事費はできるかぎり抑えるべきだという提言がここから導かれる。国連に軍縮を目標とする専門機関が存在するゆえんである。

 

軍拡という愚

 

思考実験として、どの国もまったく武力・兵器を持たない世界を想像してみよう。この世界では戦争は決して起きない。起こりようがない。隣国と諍いが生じて暴力に発展することがあっても、それは戦争ではなくせいぜい「喧嘩」である。なんともすばらしい新世界

 

他方でどの国も多くの軍備を抱えている世界を考えてみよう。想像するまでもなくこれが現実の世界、世界の現状である。核兵器などの威力が高い兵器はおいそれと使用できないとはいえ、何かのタイミングで通常の武力衝突がエスカレートしないとは言い切れない。

 

どちらの世界に住みたいだろうか?筆者には答えは明らかなのだが。

 

軍縮は難しい-囚人のジレンマ

 

20世紀に起きた2度の世界大戦から、人類は戦争の愚かさを学んだはずだった。が、喉元過ぎればなんとやら、世界はいつでも再び世界規模の戦争を起こせるように準備万端だと言える。世界中で見られる軍備拡大がこのことを雄弁に物語っている。なぜ世界の(多くの)国々は軍備の拡充に勤しんでいるのか。

 

他国が軍拡するならば自国も軍拡すべき、というのはある意味で合理的だ。両国が軍縮するのが両国にとって望ましいとしても、である。これはゲーム理論でいう「囚人のジレンマ」なのだ。お互いに「協力(=軍縮)」することが誰にとっても望ましいのに、皆が「裏切り(=軍拡)」を選んでしまう。ただし、囚人のジレンマで実現する結果はあくまで当事者にとって不本意な結果であることに注意すべきだろう。植木等が軽快に歌い上げたように「分かっちゃいるけどやめられない」のである。もっとも、経済学者が色んな国や地域で行なってきた「囚人のジレンマ」実験からは、多くの人びとは目先の利益を犠牲にして「協力」を選べることも分かっている。これは軍縮への道にとって大きな希望である。

 

最初に触れたニューズウィークの記事に則して言えば、囚人のジレンマの状態にあって中国軍の軍事力を弱めるにはどうすればよいか、この点こそ知恵を絞って考えるべきなのだ。軍拡という安易な道を後押しするような論調が社会の優勢にならないことを切に望む。

防衛省初の防衛装備「不用」品オークション「Defense Auction」

官公庁が休みであるはずの日曜日(2020年7月26日)、市ヶ谷(東京)にある防衛省本省の講堂に200人ほどの人が集まった。実はこの日、防衛省として初めての試みとなるオークション「Defense Auction」が開かれて、自衛隊の飛行機や戦艦の部品などの不用となった防衛装備品21点がせり売りされた。オークションに参加したのは抽選で選ばれた東京都の在住者176人だ。

 

最高値を付けたのは航空自衛隊が出品した「パイロット関連用品セット」(ロット番号21番)だ。具体的には航空ヘルメット・酸素マスク・航空ヘルメットバッグのセットで落札額は66万円。競売人をつとめた河野防衛大臣(当時)が金額を釣り上げていく。「55万円、58万円、66万円……、66万円、273番おひとかた、いらっしゃらなければ273番の方に落ちます」金額の刻み方が見ていて不思議だったが、まあ、事前に上げ幅もきちんと打ち合わせてあったはずなので計画通りなのだろう。この「パイロット関連用品セット」は出品リストの最後に名前を連ねていて、3万円という開始価格も品物の中で一番高い。防衛省側もこれを目玉商品と考えていたに違いない。オークションの様子は一部、YouTube動画などで観ることができる(「初の競売 落札総額は581万円 自衛隊装備品オークション」テレ東NEWS(2020年7月27日21:05))。

 

www.tv-tokyo.co.jp

 

オークションの売り上げは全部で581万8千円。開始価格の合計金額17万7千円に比べると大きな成果だったのではないだろうか(アートオークションなどでは落札額の予想である「エスティメート」と比べて、オークションの成功度合いを評価することが多いと思うが、今回のDefense Auctionでは予想落札額の提示はなかった)。オークションの開催前に河野大臣が発言していた「F35」1機分にはほど遠いし(もちろん「今日1日では無理だと思いますけれど」と言っていた)、5兆円を超える防衛関係費からすると微々たる金額だというのは間違いない。それでも不用品をまったくの「鉄くず」として処分するよりは有意義な営みだろう。

 

防衛省にとっては初の試みだった放出品の販売だが、例えば鉄道会社が行なう鉄道イベントなどではよく見かける光景だ。イベントの1つというよりメインイベントに近いかもしれない。こういったイベントではオークションで放出品を売ることもある。また、国や都道府県が差し押さえた物件を売る公売(こうばい)や、行政機関が公有財産を売るためにオークションを利用することは一般的だ。防衛省は今後も同じようなオークションの実施を考えているようで、オンラインオークションの活用も視野に入れているようだ。

 

ところで実は筆者も今回の防衛装備品オークションに関心があって、事前に参加を申し込んでいたところ見事に当選して「参加通知書」が送られてきた。ところが残念なことに、開催の3日前になって参加者が「東京在住者」に制限されてしまった(お詫びの手紙と一緒に記念品のボールペンが送られてきた)。このご時世なので仕方のないことだと思う。もっともオークションの落札結果を見てみると、「値段があまり高くなければ何か競り落とそうかな」といった軽い気持ちの筆者は参加しなくてよかったのかもしれない。

入札できる機会が増えると落札額が上がるのか?ドラマ『花不棄』に見る3ラウンド制入札

官銀流通権にまつわる入札

 

『花不棄(カフキ)』という中国ドラマが人気らしい。「美男〈イケメン〉貴公子たちとの波瀾万丈な恋と運命が待ち受ける2020年No.1ドラマティック・ラブ史劇!」で、公式ホームページによれば「同時間帯視聴率1位!総再生数100億回超!」とのこと。

kandera.jp

 

個人的にはイケメン貴公子にもドラマティック・ラブ史劇にも関心はないのだが、「ひょっとして興味があるんじゃない?」と第18話「胸に秘めた想い」を観るよう勧められた。何のことかと思ったら、官銀流通権にまつわる入札の場面だった。

 

官銀はお金のことで、紙幣や硬貨の製造・流通にまつわる諸々の事業を一手に引き受ける権利が官銀流通権だ。つまり公共入札である。現代の日本でも「箱物」を建てる際などに公共工事の委託(公共調達)を巡って競争入札が行なわれる。実際に昔の中国でこのような紙幣や硬貨の流通事業が民間に委託されていたのかどうかわからないが(そもそもドラマでは明確な時代設定がない)、ドラマの中では四大名家である莫府と朱家が権利を争って入札する。

 

刻限は線香1本分

 

入札が始まると莫府と朱家は指し値を考え、金額を示した用紙を入札箱に投入する。指し値を考える時間は限られていて、主催者の信王府は「刻限は線香1本」と宣言する。線香が燃え尽きるまでに入札を終えなければならない。家で焚いているお香はだいたい20分で燃え尽きるので、たぶんそのくらいだろう。短いとは思うが、当然、参加者は事前にじっくりと時間をかけて戦略を練ってきているはずである。入札結果はすぐに読み上げられて、莫府と朱家の指し値がその場の全員に明らかとなる。

 

ちなみに、カサディー(Ralph Cassady, Jr.)によるオークションの古典『オークション・アンド・オークショニング』(邦訳なし)によると、入札できる時間を「ろうそくが燃え尽きるまで」などと決める方法は17世紀のイギリスなどで広く用いられていたらしい。ただし、この本で紹介されているオークションは競上げ式のオークションである。

 

指し値を入札するチャンスは3

 

さて『花不棄』作中の入札で興味深いのは、この入札が3ラウンド制だということだ。2回目、3回目の入札では、それまでの相手の指し値がすべて分かったうえで自分の指し値を決める。どうしてこのような仕組みを採用したのだろう?

 

作中、1回目の入札で莫府と朱家の指し値はともに400万両。入札会場にいた他の参加者たちは金額の高さに驚く。去年は同じ官銀流通権が300万両で落札されていたからだ。この結果を受けての第2ラウンドでは、莫府500万両に対して朱家520万両。当然のことながら、入札は100万両単位でなくてもよい。

 

そして最終第3ラウンド。莫府は指し値を一気に800万両へと引き上げ、おそらく勝利を確信したのだろう、得意げな表情を見せる。主催者である信王府の言葉に耳を疑ったに違いない「朱家、800万と300両」。結局、わずか300両の差で官銀流通権を得たのは朱家だった。

 

何万単位の指し値が入札されていたのに最後だけ「300両」という半端な金額の差で勝者が決まるとは、いかにも裏がありそうだ。「もしや朱家には千里眼でもいるのか」と会場からは驚きの声も漏れる。実は、800万両という莫府の入札額を事前に知った信王(主催者)が情報を朱家に伝えていたのだった。つまり出来レースだったのだが、その点はここでは措いておく。

 

入札の機会が多くても主催者の得にはならない

 

入札の機会が3回あれば、指し値はそのつど上がっていく。つまり、3ラウンド制によって主催者に高い収益が見込める。そう考えるのは誤りである。合理的な入札者なら、その後の上昇を考えに入れて1回目、2回目の指し値を低く抑えるはずだからだ。そもそも早い段階で「本気の指し値」を見せてしまえば、手の内を見せることにもなりかねない。その意味でも、1回目や2回目は現実的に意味のないような低い金額(例えば1万両)を示すべきだと言える。

 

もっとも、早い段階で高い指し値を入札する意味がまったくないとは言い切れない。高い金額によって「落札するために出費はいとわない」「何が何でも落札する」という意思を明瞭に示して、競争相手を降ろすという戦略が考えられる。この場合、結果的に安い金額で権利が手に入るかもしれない。サザビーズやクリスティーズなどの絵画オークションでおなじみに競り上げ式(英国式)オークションでは、序盤で急激にビッドを吊り上げる「ジャンプ・ビッド」が合理的な戦略となり得ることが理論的に示されている。作中の入札方式は、もっとも高い指し値を入札した者が権利を獲得し、自分の指し値を実際に支払うというもので、オークション理論では1位価格オークションと呼ぶ方式である(公共工事競争入札で用いられる方式もこの派生形だ)。けれども、3ラウンド制のため、ある種の競り上げ式と見なすこともできる。もし入札者がジャンプ・ビッドによって得できるならば、主催者はその分だけ損をする。

 

こう考えると、官銀流通権の入札をわざわざ3ラウンド制にする意味はないと言えるだろう。1回きりの入札と比べて、落札額が高くなることはなさそうだからだ。1回目や2回目の指し値が高くなると(ジャンプ・ビッド)、結果的に落札額が下がることもあり得る。場合によっては、序盤の指し値が「談合」に使われる可能性もある。それよりは、素直に1回きりの(普通の)競争入札を行なって、入札の刻限を線香3本分にしてあげたれば参加者にはありがたいかもしれない。ドラマのたった1場面で、話を盛り上げるための小道具に過ぎないと言われればそれまでの話ではあるのだけれど。

ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷』(中公叢書)

奴隷貿易と聞くと、ヨーロッパやアメリカへアフリカ人を運んだ「三角貿易」が思い浮かぶ。つまり「奴隷=黒人」というイメージである。ところが16世紀中葉から17世紀中葉の100年間、日本人も奴隷としてアジア各地や南米、ポルトガルへ運ばれていたのだという(南蛮貿易)。『大航海時代の日本人奴隷』を読んで、この事実にまずは驚いた。もっとも、本書の「緒言」によれば、日本人奴隷の存在はだいぶ前から学会では知られていたようだ。 

 

大航海時代の日本人奴隷 (中公叢書)
 

 

ひと口に奴隷と言っても実態は様々だったらしい。炎天下で過酷な労働を強いられるといったステレオタイプ的な奴隷ではなく(やはりプランテーションで強制労働させられる黒人奴隷のイメージがある)、家事をこなす家事奴隷や召使い、従者、あるいは簡単な雑用以外には仕事もないような「奴隷」なども多かった。また、子供の奴隷には過酷な労働を与えず、自身の子供の遊び相手をさせた。養子にする目的で子供を購入することもあったという。とは言え、多くの奴隷にとって彼らの境遇が安寧なものだったわけではない。例えば所有者を明確にしたり懲罰の目的で、ポルトガルや南米では奴隷に烙印を押すという習慣があった。

 

本書は航海日誌、遺言状、訴訟記録など多くの資料に基づいて、アジア、南米、ヨーロッパの地へ奴隷として渡った日本人の姿を再構築している。奴隷貿易キリスト教の布教と密接に関係していて、奴隷となった日本人にもフアン・アントンとかドミンゴ・ロペスとかの洗礼名が付く。膨大な資料の中から洗礼名で書かれた日本人に関する記述を確かめていくだけでも大変な作業だろうと思う。ポルトガル人の考える「奴隷」と日本人の考える「奉公人」は似て非なるもので、当人は奉公人のつもりなのに奴隷として取引されてしまい、「自分は本来ならば奴隷ではない」と訴え出る日本人奴隷が多数いたなど、本書は興味深い記述であふれている。

終わりなき文化大革命-楊海英『墓標なき草原(上)(下)』現代岩波文庫

文化大革命とはいったい何だったのか――内モンゴルに住むモンゴル族の視点からこの問いに答えたのが本書である。その答えをひと言で表せば、文化大革命とは虐殺だった。内モンゴル生まれの著者による本書は、文化大革命とその前後の政治弾圧を生き延びた当事者たちの証言にもとづく、内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録だ。上下2冊に分かれた本書『墓標なき草原-内モンゴルおける文化大革命・虐殺の記録』は4部構成で、上巻はそのうちの第1部と第2部が収められている。


文化大革命ではモンゴル人の大量虐殺が中国共産党の主導でおこなわれた(304ページ)。そもそも文化大革命内モンゴルから始まったのだというが、それはどうしてなのか。遊牧民族を営むモンゴル人と農耕生活を営む漢人の間にはそもそも「文明の衝突」(23ページ)があった。また、モンゴル人には対日協力という過去の罪があった。中ソ対立が深まるなかで、修正主義国家(ソ連モンゴル人民共和国)と陸続きの内モンゴルは戦略的に重要な場所であり、信用ならないモンゴル族がその地を占めているのは中国共産党にとって都合が悪かった(280ページ)。中国共産党にとってモンゴル人の虐殺は当然の成り行きだったのだろう。

内モンゴル自治区の最高司令官だったウラーンフー(雲澤)がたどった運命は、当時の内モンゴルの情勢を理解するうえでとても示唆的だ。ソ連への留学経験も持つウラーンフーは正真正銘の共産主義者で、漢族の共産党幹部による教唆もあって、内モンゴル東部の知識人たち(「日本刀をぶら下げた連中」)を打倒した。ところが後に、ウラーンフーは自分自身が「前門飯店会議」でつるし上げられて失脚する。中国共産党は後に、ウラーンフーを含む内モンゴル西部の「根元から紅い延安派」と東部の「日本刀をぶら下げた連中」の対立が大量殺戮の原因だったと主張した。第1部と第2部は主に、「日本刀をぶら下げた連中」とその子供たちの証言を中心に、当時、内モンゴルで起こったことがまとめられている。

「前門飯店会議」ではウラーンフーの犯した「罪」が長々と述べ立てられたが、過去の罪をあばくのは中国共産党にとって造作もないことだった。かつて共産党に称賛されたことが後には同じ共産党によって非難される。こうした「過去の清算」(35ページ)は典型的なやり方だった。過去を自由に作り変えられるのは真の権力者の特権で、中国共産党のやり方はジョージ・オーウェルの『1984年』を思い起こさせる。また、事前に落とし穴を用意しておくことも頻繁にあったようで、政治的謀略の多用こそが中国共産党の政策的な特徴だったらしい(254ページ)。

習近平ウイグル族への弾圧について「一切容赦するな」と指示していたことがニューヨークタイムズで報じられたことは記憶に新しい(NYT Online, November 16, 2019)。

 

www.nytimes.com

中国政府は「敏感な問題に関する文書の公開」に対して憤りを示したらしいが(CNN, November 19, 2019)、怒る権利があるのは弾圧されているウイグル族のはずで、中国が憤りは筋違いだろう。文化大革命には少数民族に中国文化を強制する文化的ジェノサイドの側面があった(81ページ)。中国共産党による支配が続く限り、「文化大革命」は終わらないのかもしれない。

ヤフオク!に出品された藤井二冠の「封じ手」が欲しい!いくらを入札すればよいのか?

藤井聡太二冠の「封じ手」がヤフオク!に

 

2020年9月11日、日本将棋連盟のホームページにこんな告知が出された。

www.shogi.or.jp

 

日本将棋連盟では先に行われました、第61期王位戦七番勝負(木村一基王位-藤井聡太棋聖)の封じ手を九州豪雨被災地への救援金として、ヤフオク!に出品いたします。

 

封じ手」が出品されたのはチャリティー・オークションで、実費を差し引いた収益金の全額が「社会福祉法人 西日本新聞民生事業団」へ寄付されるという(ヤフオク!に設けられた特設ページ)。9月14日正午にオークションが始まり、5千円の開始価格はわずか2時間で250万円にまで競り上がった。オークション締め切りの9月20日21:00までに金額がどこまで上がるのか?まったく読めない状況だ。

 

ヤフオク!は2位価格オークション

 

自分の競り値が1番高ければ品物を落札することができる。この時の落札額はどのように決まるのだろうか?ひょっとすると、多くの人は「自分の付けた競り値を支払う」と考えるかもしれない。ところがヤフオク!などのオンラインオークションでは、自分の次に高い競り値に一定の上乗せ金額(入札単位)を加えた額を支払う。例えば、自分のビッド(付け値)が1万円、ビッドの次点が8千円、入札単位が250円だとしよう。このままオークションが終わったとすると、1万円を入札した落札者は8250円を支払うことになる。落札者が支払う金額は1番高いビッド(自分の付け値)ではなく2番目に高いビッド(次点)であるため、このようなオークションを「2位価格オークション」という(オークション理論を使ったヤフオク!の考察については拙著『ヤフオク!の経済学』をご参照ください)。

 

2位オークションには最適な入札戦略がある

 

オークションで品物を競り落とすためには高度な戦略が必要だ、そう思うかもしれない。けれども、2位価格オークションの参加者にとって「最適な入札戦略」は、実にシンプルなものであることが理論的に分かっている。その戦略とは、「自分が払ってもよいと考えている金額をそのまま入札する」というものだ。この金額じゃ勝てないかもなどと考えていたずらにビッドを上げたり、支払いを低く抑えるために変にビッドを下げたりする必要はない。

 

自分にとって「封じ手」に500万円の価値があると考えているなら、500万円という金額を最初から入札しておけばよい。ここで「価値」というのは、自分が出してもよいと考える金額の上限である。ライバルたちのビッドが500万円に届かなければ、あなたは2番手のビッドに入札単位が上乗せされた金額を支払って「封じ手」を手に入れられる。この金額は500万円よりも低い。場合によっては、誰かが500万円よりも高いビッドを付けて、あなたは「最高入札者」ではなくなってしまうかもしれない。けれども、もともと「封じ手」の価値は500万円だと考えていたのだから、これは仕方がない。もしライバルに対抗してもっと高い金額を入札したら、たとえ入札競争に勝てても、自分にとっての価値を上回る金額を支払う羽目になるだけだ。

 

自分にとっての価値を正しく見積もることが大切

 

この話のポイントはどこにあるだろう?筆者の考えでは、自分にとっての「封じ手」の価値をきちんと見積もることが大切ということだ。ここを見誤らなければ「最適な入札」は簡単である。そしていったん入札したらオークションの推移を見ずに黙って結果を待つ。ライバルたちの入札金額が上がっていくのを見ると、焦ってしまってビッドを上げたくなるからだ。落札結果を見て、「ああ、この金額だったら自分も欲しかったのに……」などと後悔するということは、自分の入札額は「出してもよいと考える金額の上限」ではなかったということになる。このように後悔することがないよう、よくよく慎重に価値を見積もっておく必要がある。本当に重要なのはオークションに参加する前なのだ。

追記

オークション結果は以下の通り。やはり王位を決めた第4局の価値が高いのか。

第61王位戦七番勝負第2局<木村一基王位-藤井聡太七段:5,501,000円

第61王位戦七番勝負第3局<木村一基王位-藤井聡太七段:2,001,000円

第61王位戦七番勝負第4局<木村一基王位-藤井聡太七段:15,000,000円

誰から手数料を取るべきか?競売会社にとっては些末な問題である理由

多くの場合、競売会社は委託を受けて品物をオークションで売る。品物が無事に落札されたら、委託者(売手)と落札者(買手)は規程の手数料を競売会社へ支払う。手数料は落札価格に対する一定の比率(パーセンテージ)で設定されていることが多い。競売会社の収益は大部分がこれらの手数料であり、誰から幾らの手数料を徴収するのかは競売会社にとって重要な問題のはずだ。

 

手数料の取り方は大まかに言って3通りである。売手と買手の両方から徴収する「両手取引」、そしてどちらか一方にのみ手数料を請求する「片手取引」である。美術品オークションでは両手取引が一般的でだが、それ以外の業界では売手に対する片手取引が多い。また、両手取引にしても、売手と買手に対して設定された手数料率には大きなばらつきがある。これは一体どうしてなのか?

 

2020年8月に『マネジリアル・デシジョン・エコノミクス』誌に発表した論文では、この疑問をゲーム理論的に考察した。論文のメッセージはこうだ。競売会社に可能な限り高い利益をもたらしてくれる手数料率には無数の組み合わせがある。つまり、競売会社にとって、手数料を誰から徴収するのかは重要な問題ではない。

 

議論のポイントは、手数料に対する売手と買手の戦略的な反応にある。まずは買手に注目してみよう。買手は落札価格に手数料を上乗せして支払う必要がある。手数料率が高いほど合計の支払い金額は上がる。ところが理論的に言って、手数料が買手にとって負担となることはない。なぜか?買手は単に手数料の分だけ競り値を下げるからである。例えば手数料がなければ1万円をビッドするとしよう。もし手数料率が10%なら、合理的な買手はビッドを9千90円に下げる。最終的な支払いはどちらも1万円である。

 

そして、買手の反応を正確に読み込んだ売手は、競り値の下げ分に応じて低い最低落札価格を付けるという行動に出る。最低落札価格を調整することで、オークションの売上を一定に保つことができる(しかし売手手数料が上がればその分だけ売手の取り分は減る)。売手による最低落札価格の調整と買手による競り値の調整、この2つの調整をつうじて競売会社の収入が一定に保たれることを論文は示している。

 

実際にオークションの利用手数料には大きなばらつきがある訳で、論文の議論はこの現実の状況とうまく合っている。けれども「なぜ、そのようなばらつきが生じるのか」という疑問にはうまく答えられていない。競売会社もまさか適当に決めているわけではないだろう。何か設定基準があるはずだ。また、美術品オークションをのぞいて、大方のオークションで売手に対する片手取引が行なわれている理由も不明なままだ。論文ではいくつか仮説を提示しているものの、これらは今回の議論から直接導かれたものではない。この論点は今後改めて考察する必要がある。