とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

ヤドカリたちの住宅難

小学生の頃、ヤドカリを「ヤドカニ」だと思っていた。漢字でどう書くかなどまったく意識していなかったけれど、たぶん頭には「宿蟹」があったのだろう。エビやカニと同じ十脚目の生き物なので、まったくの的外れというわけでもないかもしれない。もっともいま思うとたぶんザリガニと混同していたのだろう。理由はよく分からないが当時、うちの小学校ではザリガニを飼うのが流行っていた。近所の排水溝で誰かが採ってきたザリガニが小学校の中庭にあった洗い場へ放してあった。休み時間にみんなでザリガニを見に行って餌をやったり(何を与えていたのかまったく覚えていないけれど)ホースで水をかけたりしていた。これを飼っていたと呼んでよいかどうかは微妙かもしれない。

小学生の思い出が急に頭に浮かんだのはヤドカリについて興味深いニュース記事を読んだからだ。2020年は世間の話題をコロナウイルスがさらった1年だったが、その影響はヤドカリにも及んだらしい(「「宿なし」ヤドカリを助けて!タイ国立公園が貝殻の寄付呼び掛け」AFPBBNews2020年11月9日)。

www.afpbb.com

2020年、世界中のいたる所から観光客が姿を消したのは知ってのとおり。タイ南部にあるランタ諸島国立公園も例外ではない。そして観光客の激減を埋め合わすように同公園ではヤドカリの生息数が急増したのだという。この因果関係が素人目には分からないのだが、海洋生物学者の目には観光客減が一因と映るらしい。

原因はなんであれヤドカリたちが突然の住宅難に見舞われることになったのは事実。ヤドカリは成長して体が大きくなるとより大きな貝殻を見つけて引っ越すのだが、それらの貝殻は死んだ貝が残したものだ。貝の生息数が増えなければ貝殻の数は変わらない。つまりヤドカリが増えただけ貝殻は不足する。ヤドカリの体は柔らかく、自分を守ってくれる貝殻がなければ生きていけない。そんな住宅難で彼らが選んだ道は貝殻の代わりに空き缶のふたやガラス瓶などを宿にすること。なんとも強かなものだと関心する。

普段は空き缶を選ばないのだからヤドカリにとっては貝殻が望ましいのは間違いない。けれどもガラス瓶を背負う生活がヤドカリにとってどれほど都合の悪いことなのか、これは記事に言及がないので分からない。巻貝特有の螺旋がヤドカリには心地よいのかもしれない。さて国立公園当局が「ヤドカリのため円すい形の貝殻を公園事務局に送ってほしい」と人々に呼びかけるとタイ各地から200kgの貝殻が集まった。日常生活で不自由を強いられているはずの状況でヤドカリのために行動する人びとがたくさんいるとはなんとも驚きだ。仏教の教えが人口に膾炙するタイならではなのかもしれない。2021年はコロナ禍が収束してヤドカリにも日常生活が戻ることを祈りたい。

トマス・モア(平井正穂)『ユートピア』岩波文庫

ユートピア」という言葉は、「空想上の」あるいは「理想的な」という意味で使うことが多いだろう。トマス・モアの造語であるユートピアギリシア語で「どこにも無い」を意味する。表題の『ユートピア』はどこにも無い国なのである。

ユートピア (岩波文庫 赤202-1)

ユートピア (岩波文庫 赤202-1)

ユートピア』はユートピア国に滞在したラファエル・ヒロスデイが語った見聞をモアが記録したという体裁をとっている。この本の中でモアは共産主義国家であるユートピアを理想国家として描いた。ユートピア国の特徴は様々だが、必要十分な少数の法律を人々が忠実に順守していることや、人々が貨幣をまったく用いずに社会生活を営んでいることはユートピア国に特有な特徴だろう。法制度、例えば刑罰の重さや人々が法律を自ら進んで守るための褒賞の存在などがかなり詳しく述べられている。法律家のモアにとって、(宗教を別として)社会基盤としての法律や法制度の重要性を強調するのは当然のことだったに違いない。

しかしユートピアを「どこにも無い国」にしているのは何よりも、公共の利益と平和を求めるユートピア人の性質なのではないかと個人的には思う。「金銀を汚いもの、恥ずべきもの」と考える人々が個人的に大きな富を所有することは難しいだろう。私有財産に関心のない人々は公共財産の増進に心を砕くかもしれない。「どんな人間でも自分に危害を加えない限り、敵と見なすべきでは」なく、「戦争で得られた名誉ほど不名誉なものはないと考えている」人たちの間では争いも起きず、他国へ戦争を仕掛けることもなく、平和が保たれるはずだ。

ユートピア人のこういった性質はそもそもどこから来ているのか。少なくとも一部は教育の賜物と言えるだろう。しかし教育がなぜ上手く機能しているのかが、非ユートピア人である読者にはなかなか理解できない。他の例として、本書には窃盗犯に対する扱いについての記述がある。窃盗犯は日中に公共の労務を果たし夜は独房で過ごす。「国家の共通の召使い」である彼らにはかなり良い食事が提供され、給与が支払われる。そして給与の財源は「非常に慈悲の心に富んでいる」人々による寄付なのである。教育が慈悲の心をはぐくむことは間違いないが、それだけで十分なのかどうか疑問が残る。非ユートピア人であるヒロスデイア説明の中で何気なく「この方法は不安定なものではありますが」という一言を付け加えているのもうなずける。

ヒロスデイはユートピア国での滞在経験を踏まえてこう意見を述べる。「財産の雌雄が認められ、金銭が絶大な権力をふるう所では、国家の正しい政治と繁栄は望むべくもありません」それに対してモアは(おそらく読者を代表して)、私有財産が認められない社会では人々が真面目に働くインセンティブを持たず、結果として幸福な生活が実現しないのではないかと疑問を挟む。ヒロスデイはモアの疑問を「見当ちがい」と一蹴するが、具体的な理由を挙げて反論することはない。ここにも制度とは別の、ユートピア人の何か特別な性質こそが重要であることが暗に示されているように思える。もっとも続く第2巻ではこの疑問への答えとして「国民がぶらぶらと時間を空費する事由が許されていない」、「怠ける口実や言い訳があたえられていない」と飛べられている(本書巻末の「解説」によると第2巻が第1巻より先に書かれたという)。

モアの描くユートピアが理想国家であるかどうかはともかく、制度や法律をどう設計するにせよ、人々の考え方や価値観(そしてそれらを正しく導く教育)こそが重要であることを本書は示唆しているのだろう。

誰のワクチン接種が優先されるのか

新型コロナウイルス1

 

2020年の最も大きな出来事は新型コロナ感染症(COVID-19)のパンデミック(世界的な大流行)だろう。12月までに世界で死者は160万人を超え、日本でも日々、感染の第3波の様子が報じられている。経済活動への影響もまた深刻だ。各国の主要都市ではロックダウンによって経済活動が大きく停滞した。日本でも新型コロナの影響によって多くの企業が倒産するなど、経済へのダメージは甚大だ。

 

新型コロナ関連で明るい話題と言えばワクチンに関するものだろう。米製薬会社ファイザー(Pfizer)が独バイオ企業ビオンテック(BioNTech)とワクチンを共同開発し、有効性が90%を超えると発表したのが11月9日。12月11日には緊急使用が承認されたThe New York Times, December 11, 2020)。

www.nytimes.com

18日には米バイオ企業モデルナ(Moderna)が開発したワクチンも承認された。実は中国、ロシア、英国、米国の4か国を合わせると、110万人を超える人たちが既にワクチンを接種している(「コロナワクチン接種、4カ国で110万人超え」『日本経済新聞』オンライン版2020年12月19日8:09 )。

www.nikkei.com

日本でも12月2日には「予防接種法改正案」が成立し、早ければ2021年3月にはワクチン接種が始まる見込みだ(厚生労働省新型コロナウイルス感染症のワクチンについて」)。

 

誰のワクチン接種が優先されるのか

 

3月からワクチン接種が開始されるとしても、全国民が直ちにワクチンの恩恵にあずかれるわけではない。ワクチンの量に限りがあるからだ。そのため「まず誰に接種するか」という優先順位が問題になる。新型コロナウイルスについて言えば、「新型コロナウイルス感染症対策分科会」が優先順位も含めた接種のあり方を検討していて、2020年9月25日に「中間とりまとめ」を発表した(「新型コロナウイルスワクチンの接種順位等について」)。

 

「中間とりまとめ」では接種目的をこう述べている(9ページ)。

新型コロナウイルス感染症による死亡者や重症者の発生をできる限り減らし、結果として新型コロナウイルス感染症のまん延の防止を図る。

公衆衛生の観点から、死亡者や重症者の数をできるだけ抑えるという目的は妥当である。次いで、「中間とりまとめ」では接種順位がこう説明されている。

を接種順位の上位に位置付けて接種する。今後、具体的な範囲等について、検討する。

  • 高齢者及び基礎疾患を有する者や障害を有する者が集団で居住する施設等で従事する者の接種順位について、業務やワクチンの特性等を踏まえ、検討する。

さらに、妊婦の接種順位について、国内外の科学的知見等を踏まえ、検討する。

 

「医療従事者」「高齢者」「基礎疾患を有する者」を優先することは分かるが、彼らの接種順位が同等なのか異なるのか、この説明からは読み取りにくい。ただし「考えられる接種順位の大まかなイメージ」(18ページ)を見ると、①医療従事者、②高齢者、③基礎疾患を有する者の順で優先的にワクチンを接種することが想定されていることが分かる。

 

この「中間とりまとめ」を読むと、接種順位の中に「社会機能維持者」が含まれていないのが不思議である。社会機能、つまり流通インフラや公共サービスを提供する人たちがコロナウイルスで倒れてしまえば社会は混乱に陥ってしまう。実際、2009年2月に改定された「新型インフルエンザ対策行動計画」では新型インフルエンザの発生・流行状況のどの段階でも「医療従事者及び社会機能の維持に関わる者」を優先接種すると書かれている。

 

社会機能維持者が誰を指すのかについてはまちまちだが、例えば「新型インフルエンザワクチン接種に関するガイドライン」(2007年3月26日、新型インフルエンザ専門家会議)では、社会機能維持者を①治安を維持する者、②ライフラインを維持する者、③国又は地方公共団体の危機、管理に携わる者、④国民の最低限の生活維持のための情報提供に携わる者、⑤ライフラインを維持するために必要な物資を搬送する者としている。また「新型インフルエンザ対策行動計画」(2011年9月20日新型インフルエンザ対策閣僚会議)では、社会機能の維持に関わる事業者を「医療関係者、公共サービス提供者、医薬品・食料品等の製造・販売事業者、運送事業者、報道関係者等」と定義している。

 

優先順位に関する2つの問題

 

ワクチン接種の優先順位に関する問題は大きく分けて2つある。優先順位の決め方と実際の接種である。

 

優先順位をどうするのか。これは「医療の配給」にまつわる問題で、生命倫理学や医療倫理学の分野で議論されるテーマだ。グレッグ・ボグナーとイワオ・ヒロセは『誰の健康が優先されるのか』(2017年、岩波書店)の中で、医療の配給方法は合理的で、かつ倫理的・道徳的に正当化できなければならないと述べている(本書の内容についてはこちらの記事をお読み頂きたい)。そのような配給方法を考えておけば、医療現場での恣意的なワクチン接種を避けることができる。また、医療スタッフに「命の選別」を強いる必要もなくなる。

 

しかし仮に「完全な優先順位」を決めることができたとしても、問題は残っている。優先順位に従って人びとにワクチン接種することが、現実には非常に難しいのである。「新型コロナ:ワクチン接種と公平性のジレンマ」(『ニューズウィーク日本版2020.12.22号』)はワクチン接種に関して現実に起こりうる問題に懸念を示している。

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例えば、医療関係者や高齢者の接種が終わって、次は社会機能維持者に対してワクチンを接種するとしよう。「新型インフルエンザ対策行動計画」では「報道関係者」が社会機能維持者として定められているが、果たして報道関係者とは誰のことか。新聞記者は報道関係者と言って問題ないだろうが、新聞社に勤務するすべての人が報道関係者というわけではないだろう。報道関係者かどうかを業務によって線引きするのは難しいように思える。またこの時代はブログやYouTubeを通じて誰でも「ニュース」を発信できる。全員が報道関係者でないのは自明だが、では報道関係者と言えるための条件は何だろう。「いつワクチン接種できるのか」が書くように優先順位を決めるための「条件」が示されても、「住民のうち誰が、どのグループに該当するかを個別に判定するプロセス」が大きな問題となるのだ。また、条件に合致するかどうかが「観察可能」でない場合、問題はもっと複雑になるに違いない。ワクチン接種を求めて自分の属性を偽る人がいるだろうからだ。

 

問題があろうとなかろうと、ワクチン接種は来年には始まるだろう。それは人びとが望んでいることでもある。社会の混乱が最小限で済むことを祈りたい。

グレッグ・ボグナー、イワオ・ヒロセ(児玉 聡、他)『誰の健康が優先されるのか――医療資源の倫理学』岩波書店

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どのように医療を配給するべきか?

「医療の配給」は、医療資源を振り向ける治療方法や医療サービスを提供する患者集団の「選択」を意味する。つまり「どの抗がん剤を健康保険の適用対象に加えるか」や「インフルエンザのワクチンを誰に投与するか」を決めるということである。英国の作家であるギルバート・チェスタトンは「何かを選ぶことは別の何かを選ばないことである」と言ったが、医療の配給において彼の言葉は特別な響きを持つように感じられる。

どのように医療を配給するべきか?グレッグ・ボグナーとイワオ・ヒロセによる『誰の健康が優先されるのか――医療資源の倫理学』(岩波書店、2017年)は生命倫理学の立場からこの問いへの答えを探っている。著者はそれぞれスウェーデンとカナダの大学で教鞭をとる2人の哲学者だ。

本書の議論をまとめておこう。

  1. 医療資源が限られているため、医療の配給は避けられない。
  2. 医療の配給方法は合理的で、かつ倫理的・道徳的に正当化できなければならない。
  3. 費用効果分析に基づいて配給方法を決めるのは合理的である。
  4. 「効果」を評価するうえで公平性を考慮に入れることで、3. を倫理的・道徳的に正当化できる。
  5. 他方で医療の配給方法を決めるにあたって、行為の選択や帰結に関する個人の責任を考慮に入れるべきではない。

まず、1章を丸ごと充てて本書は1. を説明する。レビュアーの私見ではこの主張は自明である。とはいえ背景説明はその後の議論を展開するために重要だし、1章を読むことで著者たちが慎重に議論を進めていく姿勢をうかがうことができる。また1章では医療の配給が実際に世界中で行なわれている事実に読者の注意を向けさせる。そのうえで本書は医療の配給の望ましさを強調する。もちろん配給方法が合理的かつ倫理的に正当化できる場合には、である(2.)。配給方法の決め方が備えているべき性質が2章以降で議論されていく。

著者たちの提案は、配給の決定に費用効果分析を用いるべきというものだ。費用効果分析では(福利そのものではなく)健康関連QOLなどの尺度を用いて介入・治療の「効果」を測定する。他の条件を一定とすれば、健康状態を大きく改善する介入・治療に高い優先度が与えられる。これは合理的と言えるだろう(3.)。費用効果分析の前提には、医療の受益者の便益を足し合わせることが可能だとする「集計のテーゼ」がある。著者たちはこのテーゼを認める立場に立つ。

費用効果分析に対しては「公平性」の観点による批判がある。しかし著者たちの見解によれば、受益者の便益の評価に「優先主義」を取り入れることで、公平性に配慮しながら費用効果分析を行うことができる(4.)。例えば健康に恵まれているかどうかや年齢によって個人の便益に重みづけすれば、これらの事情を効果の大きさに反映させることができる。これが優先主義の考え方である。

他方で「誰の治療を優先すべきか」という問題において特に、不健康な状態を自ら招いた患者の「責任」を判断基準の1つとするのが公平だという議論がある。しかし著者たちはこの考え方を退ける(5.)。理由の1つとして、患者の選択は実際のところ、患者が置かれている社会環境や経済状況から大きな影響を受けているかもしれず、その状況を選んだのは患者の意思とは無関係かもしれないからだ。

新型コロナのワクチン開発が成功し、いよいよ投与が始まるというニュースに人びとが接し始めたのは2020年の暮れである。しかし誰もがすぐにワクチンの恩恵にあずかれるわけではない。では誰が優先されるのか。本書の議論が突如、身近で現実的な問題として人々に意識されるようになってきたわけだが、解決策は一朝一夕に見つかるわけではない。私たち自身が普段から入念に考えておく必要があり、本書は考え方の柱を提供してくれる。

カビール・セガール(小坂恵理)『貨幣の「新」世界史』早川書房

本記事ではカビールセガールによる『貨幣の「新」世界史』の内容を紹介して、感想を書いておこう。

本書の内容
お金に対する理解を深めたいという著者の思いから本書は生まれた。確かにお金とは不思議な物である。私たちが普段の生活で当たり前のように受け入れている1万円札には、実際に1万円の価値があるわけではない。しかしほんの何十年かさかのぼれば、貨幣は額面分の「金(ゴールド)」と交換が保証されているという意味で、実体としての価値を備えていた。前者を不換紙幣(本書の用語ではソフトマネー)、後者を兌換紙幣(同じくハードマネー)という。本書はハードマネーからソフトマネーへと続く通貨の歴史を簡潔に紹介している。

本書が扱うテーマは通貨の歴史だけではない。単なる交換手段を超えて貨幣が私たちに対して持つ意味合いが、心理学や神経科学の知見や宗教をとおして分析されている。一般的に言って私たちはお金が好きだが、これはお金が「進化本来の目的に直接役立つわけではないが、生存に欠かせないものとして脳に刻み込まれている」からだ。また、お金が私たちの意志決定に大きな影響を及ぼすことが脳のスキャン画像から分かる。だからこそ既存の宗教は、人々がお金に惑わされないように「(お金が)少ないほどよい」「足るを知る」という精神的論理を強調する。

4人の古銭収集家に取材した最終章は、本書のなかで最もオリジナリティーにあふれていて面白い(が、残念なことにこの章が1番短い)。著者は彼らに「自分の国の象徴として、最もふさわしいコインを教えてください」と問いかける。読みながら、さて日本を1番よく表している硬貨はなんだろう?と自分でもつい考え込んでしまう(戦後の復興を象徴する東京五輪1000円硬貨なんかどうだろう)。

これは貨幣についての本なのか
このように本書の内容は幅広い。幅広いことは悪いことではないが、本書は内容に統一感を持たせることに成功しているとは言い難い。そのせいで、全体的に著者が勉強したことの寄せ集めのような内容になってしまっている。

本書の第1章は植物の光合成や生態系における共生関係を「交換行為」ととらえながら、エネルギーを貨幣の一種と見る。また、交換行為が協力関係の1つだという見方を紹介したうえで、ゲーム理論や進化論によって協力関係が進化的に安定しやすいことを説明する。

多くの取引――物やサービスの交換――に貨幣は欠かせない。つまり、貨幣は交換取引の重要な媒介手段なのだが、光合成におけるエネルギーの移動を持ち出されると、こじつけが過ぎるという印象を受ける。著者は貨幣について多くを学ぶ中で「お金は価値のシンボルだという定義にたどり着いた」という。この定義にどう照らしても、生態系での共生関係は貨幣と無関係だろう。

また、第2章の大半は伝統的な経済学と新しい経済学(行動経済学や実験経緯学、神経経済学など)の違いを説明するのに充てられている。人々の「非合理的」な行動を、行動経済学は伝統的な経済学よりもうまく説明できることが多い。本書でもにおわせているように、2008年の金融危機が「経済学の失敗」の結果であるならば、行動経済学や神経経済学の発展によって、今後は危機の発生を防げるかもしれない。こういった内容はともかく、やはり本章も貨幣についての考察とはあまり関係ない。経済学も金融もお金と関係すると言えばそれは正しいけれど、少なくとも貨幣についての理解が深まることはなさそうに思える。

内容が不正確なのでは
著者が「はじめに」でこう述べている。

本書は一般的な理論を深く降り下げるわけではないし、従来と異なるユニークな見解を紹介するわけでもない。巻末の文献で紹介したすばらしい方々の努力の成果を一冊にまとめたものである。

膨大な文献を渉猟し、分野を横断して1冊の本を上梓するのは大変な作業だっただろう。しかし、そういった文献を正しく読み込めていないと思える記述がしばしば見られる。いくつか例を挙げよう。

第2章では協力が当事者に便益をもたらすことを、アクセルロッドによる繰り返し囚人のジレンマ実験に言及しながら議論を展開していく。しかしゲーム理論を仕事で使っている身からは、囚人のジレンマについての不正確な記述がやはり気になる。「[対戦相手が協力と裏切りの]どの選択肢をとるか、お互いにわからないところがジレンマに陥る所以だ」(50ページ)と著者は書くが、これはまったく正しくない。相手の選択肢が分かったとしても、個人の観点からは「裏切り」を選ぶことが常に最適であり、それによって得られる結果が「双方が協力する」ことで得られる便益よりも低い。そのことを理解していても裏切っていまうことが「ジレンマ」なのである。

貨幣の将来を論じた第6章では、世界の大半では決済手段として現金が使われているというマスターカードの報告書を取り上げて、その例として6700万枚しかクレジットカードが発行されていない中国に言及している(2013年)。しかしこの時点で中国はすでにモバイル決済が主流であって、現金はあまり使われていなかった。

本書が取り上げている多くの分野について、よく知っている人が読めば内容の不正確さが気になるという点が他にもあるのではないだろうか。

評価:「交換」をキーワードにした連想ゲームのような本
ジャレド・ダイアモンドによる『銃・病原菌・鉄』以来、様々な分野を横断的に多くの文献を渉猟して書かれた書物が世間でもてはやされる傾向があるように思う。それ自体は問題ではないが、単なる知識の羅列以上ではないような本が増えているような気がする。本書もその1つだろう。色んな分野の文献を横断的に読み込んで1冊の本を書き上げるのは大変だっただろう。けれども著者の労力は必ずしも、本に対する評価に反映されるべきとは言えない。本書が取り上げたテーマについては専門家によって書かれた良書が多く存在している。それらは本書でも随所で言及がある。その意味で、本書は良い文献案内になっていると言えるかもしれない。

日本とスウェーデンの共通点

「限りなく完璧に近い国々」
「北欧」という言葉には良い響きがある(と思う)。人びとの所得が高いが税金も高い。その分、医療や教育が無料で受けられて福祉制度も充実している。いつかは北欧で暮らしたい。北欧諸国に対してこのようなイメージを抱く人は多いだろう。実際に、「世界で最も住みやすい国指標」としても知られる「Social Progress Index」のランキングでは上位5位までに北欧4か国がランクインしている(2020年度)。

socialprogress.blog

北欧諸国の1つであるスウェーデンは、今回のコロナ禍でも人びとの行動をほとんど制限しないという方針を貫いて世界の注目を浴びた。先ほどのSSIランキングでスウェーデンは第4位である(2020年)。この結果は多くの人がスウェーデンに対して抱くイメージをある程度まで裏付けているように思える。しかし、「世界がスウェーデンに抱く虚像」という記事によれば、人びとが持っている「スウェーデン像」は虚像にすぎないのだという(『ニューズウィーク日本版』2020年11月10日号)。記事によれば、スウェーデンは開放的で反差別的な国--こうした国家像はスウェーデン人が自ら掲げる「あるべき姿」なのであって、現実とは相いれない。
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スウェーデンの同調主義
世界がスウェーデンの現実ではなく虚像を見るのは、スウェーデン人が自らその虚像を信じているからだ。記事が冒頭で紹介しているスウェーデン国防軍人の「経歴詐称事件」はともかく、スウェーデン人の思い込みの背後には根強い同調主義があるとする著者の指摘は正しいだろう。スウェーデン人は「自分がどう振る舞うべきかを心得ていて、他人にも同じ振る舞いを期待する」。

もっとも、このような指摘は珍しくない。北欧社会の特徴を国ごとに描いた『限りなく完璧に近い人々』(角川書店)でマイケル・ブルースは、そもそも北欧は民族や文化といった点で同質性の高い地域だと書いている。同質性の欠点は人びとが全体主義におちいりやすいことで、スウェーデンの特徴の1つがまさにこの点なのだという。移民に対する反感が生まれやすかったり、独創性を生む土壌ができにくかったりする。そして誰もが摩擦を避けようとする結果が全体主義である。

日本とスウェーデンの共通点
ブルースによれば、スウェーデン人は「ほかの人とエレベーターに一緒に乗るのを避け」、「知らない人とどう口をきいたらよいか、わからない」という人たちだ(この本が出版されたのはコロナ禍の前であることをお忘れなく)。この記述を読んで日本人はスウェーデン人に親近感を抱くかもしれない。まるで日本人について書いているようだ。伝統的に単一民族の国家とされる日本は民族や文化の同質性が高いし、日本の社会全体に同調主義が広く行きわたっていることは誰しも認めるところだろう。「空気を読む」とか「忖度」といった言葉が日常的に使われることからも、日本社会に溶け込んでいる同調主義がうかがえる。

ところで何が同調主義を生み出しているのだろう。先の記事はスウェーデンが「高信頼社会」だと書いたうえで、高信頼社会が同調主義の背後にあると指摘する。ただし「信頼」という言葉の意味には注意が必要だろう。ここで思い出されるのは、信頼と安心の違いを明らかにした山岸俊男の議論だ。『信頼の構造』(東京大学出版会)によれば、全体主義的な集団主義社会は安心を生み出すものの信頼を破壊する。人びとの関係が非常に安定していれば、お互いにわざわざ信頼し合う必要はない。そしてこのような関係から人びとは安心感が得られる。言わば、スウェーデンは「高安心社会」なのだ。これは日本も同じである。

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

  • 作者:山岸 俊男
  • 発売日: 1998/05/15
  • メディア: ハードカバー

『信頼の構造』によれば「信頼が必要とされる社会的不確実性の高い状況では、安心が提供されにくい」。コロナ禍で先が見通せなくなっている現在はまさにこのような不確実性の高い状況だと言えよう。現在の日本(とスウェーデン)では、社会が必要とする信頼を破壊してしまう同調主義を意識的に見直していくことが求められるのではないだろうか。

ファストファッションとスローファッション。『ファストファッション』を読んで考えたこと

2年ほど前に買ったまま「積ん読」だった『ファストファッション:クローゼットの中の憂鬱』(エリザベス・L・クライン、春秋社)を読み終えた。ファストファッションに代表される格安ファッションが地球環境に与える悪影響や、製造現場の劣悪さなどは色んなところで話題に上っている。その意味で本書の内容が目新しいというわけではない(もっとも原書が出たのは10年前で、読み終えるのが遅かったからかもしれない)。

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ファストファッションと対置される概念が「スローファッション」。地域や環境に配慮しながら何を着るのか決めるという考え方のことで、2007年6月にケイト・フレッチャー(Kate Fletcher)というデザイン活動家(サスティナビリティについての研究者でもある)が『Ecologist』に掲載した「Slow fashion」という記事で用いたのが最初と言われている。もっとも、フレッチャーは記事で、スローとはファストと対立するものではないと書いている。そうではなく「製品が労働者や社会、環境へ与える影響をデザイナーやバイヤー、小売業者、消費者がもっと意識する」というファストとは違った関わり方のことなのである。

衣服との関わり方としてエシカルファッションやスローファッションが1つの潮流となりつつある現在、読んでおく価値のある本だと思う。まずは本書の概要を簡単に紹介しよう。

市場にあふれる大量の粗悪品

アメリカではアパレル業界が30年ほどで大きく様変わりした。国産の衣料品が姿を消し、超高額な品と格安品の二極化が進んだ。値段の高いブランド品でも品質が高いとは限らず、市場は大量の粗悪品であふれて人々は服を使い捨てるようになった。アメリカの服飾産業でなにが起きたのか?本書はこの疑問に答えてくれる。

本書によれば、アメリカ人はいまだかつてないほど多くの服を持っている。とは言えアメリカ人が昔と比べて衣料品にお金をかけるようになったわけではない。格安ファッションが出回り、衣服の価格が下がったのが理由だ。アパレル企業は服を「格安」で提供するために縫製工場をアメリカ国内ではなく人件費の安い中国やバングラデシュに置く。しかし消費者が求める低価格に応えるためには工場をアジアに移すだけでは不十分だ。最低賃金(を下回る賃金)を従業員に強い、劣悪な労働環境を放置し、生地の質を可能な限り下げる。それでも低価格に慣れた消費者は「高い価格を不当と見なす」ため、企業はさらに価格を下げざるを得なくなる。「いまだかつてない大量販売」(128ページ)を展開するファストファッションがこの悪循環を助長している。

こうした状況は多方面に多くの損害をもたらしている。著者の主張は3つにまとめられるだろう。

  1. ファッション関連企業が海外へ進出した結果、産業が衰退し多くの人が失業した。また、賃金も下がった(2章)。
  2. 市場に出回る服が粗悪になり、生地の品質や仕立ての良い服を見つけるのが難しくなった。本当に質の良い服があっても、それらの価格は手が届かないくらい高い(3章)。
  3. 資源を枯渇させるほど大量に服を製造することで環境に過大な負荷がかかっている。それらの大量生産された服は大半がリサイクルされず大量のゴミを生んでいる(5章)。

この状況を改善するための方策として著者が本書で提案するのが裁縫(8章)とスローファッション(9章)だ。どちらにも共通するのは一人ひとりが購入数を減らし、それぞれによりお金をかけるということ。つまり良い物を少なく持って長く使おうというのである。著者自身は裁縫を覚えて格安ファッションと距離をおくようになった。服を自分に合うように作り直すことを知って、服との接し方が変わったようだ。スローファッションにはファッション性という強みがあり、地域で作られた「自己表現のための服」にお金をかければ社会全体を元気にすることができるとも著者は言う。

「最新のものを最安値で手に入れる」を信条として格安ファッションを買いあさっていた著者は、本書の書き終えるころにはすっかり宗旨変えしてしまった。「格安ファッションにお金をかけるのがどんなに無駄か、今は身にしみて感じている。何しろ生地も仕立ても、持つ価値のないものがほとんどなのだから」(252ページ)という著者の言葉は印象的だ。

 

さて日本はどうか?

本書が出版されたのは10年前のアメリカだが、さて現在の日本はどうだろう。H&Mが日本に最初の店舗を銀座でオープンしたのが2008年。2019年11月21日には仙台に100店舗目を出店した。それとは対照的に、フォーエバー21(FOREVER21)は2019年10月31日に国内の全店舗を閉鎖して日本から撤退した。どちらも本書でファストファッションの代表格として取り上げられているアパレルブランドだ(FOREVER21はデザインの盗用などが主な話題だったが)。両社の盛衰を分けたのかが何なのかを読み解くうえで、本書の内容が参考になるかもしれない。そして今後の日本のファッションの動向を考えるうえで、本書のメッセージには私たちにとって重要な示唆が含まれていると思う。

本書を手に取る人は多かれ少なかれファッション(あるいはアパレル業界)に関心を持っているだろうけれど、世の中には服は着られればよいと考える人も多い。本書はそういった人たちを無視しているが、彼らと格安ファッションとの関係についても考察する意味はあるだろう。

 

究極のスローファッション「着物」

今までファストファッションにまったく興味を抱いたことのない身としては、人びとを格安ファッションへと駆り立てる原動力がなんであるのか、本書を読んでもどうも理解できない。経験的にも、高いお金を出して買った質の良い服は大切にしようという気になるけれど、安物は扱いもぞんざいになる。

去年から着物生活を始めて、日ごろから普段着として着物を着ている。それでふと思い立ったのは着物こそ究極のスローファッションなのではないか?国内の産地で紡いだ絹糸を地元の工房で染め上げる。職人が作り上げた反物を和裁士が着物に仕立てる。多くの工程が手作業で仕立て上がるまでに時間はかかるものの、品質は間違いなく高い。そして当然のことながら使い捨てられるようなものではなく、長く着られる。良い物ならば世代を超えて子や孫や、あるいは知人でも、持ち主を変えて受け継がれていくこともあるだろう。着物生活は環境に優しいライフスタイルだと思う。

着物が環境に優しい理由の1つは「別誂え」という売り方にあるのだろう。老舗の呉服問屋である廣田紬さんは、ブログでこう書いている(「エコな着物? 世界に誇る究極のエシカルファッションとは」『問屋の仕事場から』2019年3月19日)。

呉服という商売はやりようによって沢山の在庫を抱えずに効率の良い商売が可能になっています。例えばフォーマル着物の世界では在庫を極力持たずにお客さんから白生地の状態から任意の柄を作る、別誂えという方法が確立されています。必要な分だけを作るという究極にエコで効率的な商売、さらに個人規模で営業しているのであれば経費を極力抑えることができ、それを商品価格に反映して消費者ともにWin-Winの関係を築くことができます。

もっとも現在は着物も多種多様で、ファストファッションとは言わないまでも、あまり質のよくない既製品も多く出回っている。もっとも、現状では着物が大量生産・大量消費されることはないので(着る人が少ない)地球環境に悪影響を及ぼすようなことはないと思うけれど。実はファストファッション・スローファッションという文脈で着物を論じた論文が書かれていて、なかなか興味深い。関心があったら目を通してみてもよいだろう。

Jenny Hall. (2018) “Digital Kimono: Fast Fashion, Slow Fashion?Fashion Theory, 22(3), 283-307.