とりまかし読書記録

読んだ本の感想や書評を掲載していきます。

秋葉忠利『数学書として憲法を読む: 前広島市長の憲法・天皇論』法政大学出版局、2019年

著者は数学者から政治家へ転身したという異色の経歴を持つ。憲法を「数学書」として読むという発想は、数学者としての訓練を受けた著者の経歴から生まれたのだと言えるだろう*1

数学書として憲法を読む」とは、憲法の条文と「九大律」を「公理」に見立て、「定理」を証明することを指している。本書における主要結果は、著者がこの公理系で証明した4つの定理である。すなわち、「A. 憲法は死刑を禁止している」「B. 憲法には改正禁止条項がある」「C. 内閣が憲法を遵守していなくても、天皇憲法遵守義務を負う」「D. 公共の福祉は憲法の総体を意味する」である。

本書は4部構成で、各部が各定理の証明(と補足説明)に充てられている。

議論の道筋はおおむね明快で分かりやすい。議論に無理がないため結論も受け入れやすい、というのが私の感想である。ただし、本書のタイトルから数学的に厳密な議論を期待すると、やや肩透かしを食うかもしれない。著者が文中で書いているように、憲法はそもそも数学書ではなく、厳密な公理系と見なすことは不可能だからだ。また、数学的な議論では必須である、概念の定義が憲法では非常に曖昧である。これも、数学的に厳密な議論を妨げる要因だろう。

しかし、上記の点を措いても、私には議論が不正確と感じられる点が1点あった。それは「公共の福祉」の範囲を議論している第4章に登場する「公共福祉テスト」(82~83ページ)の構成である。

「公共福祉テスト」は「Yを尊重するならば、Xに反する」という形式で、「条文Xが「公共の福祉」を表現するものとして適切かどうかを判断する」テストである(83ページ)。本文の例を読む限り、Xには条文、Yには権利がそれぞれ入る。つまり、この命題が真であれば、Xは公共の福祉を構成し、偽であれば公共の福祉ではない、と考えられる。

気になるのは、「公共福祉テスト」がXについてのテストであるのに、X, Yという2値から構成されている点である。そのため、「Xがテストをパスする」という結果をどう解釈すればよいのかが判然としない。論理的に妥当と考えられるのは、「すべてのYに対してXがテストをパスするならば、Xは公共の福祉を構成する」「あるYに対してXがテストをパスするならば、Xは公共の福祉を構成する」という2パターンである。ここでYの範囲は権利全体とする。

まず、すべてのYに対して「Yを尊重するならば、Xに反する」ことが、Xがテストをパスする、つまり、Xが公共の福祉を構成すると考えよう。この場合、Xが保証する権利をYとし、「Xに反しない範囲でYを実現する権利」をZとすると、明らかにZを尊重しても、Xに反しない。このようなZは必ず構成できるので、どのXもテストをパスしない。

次に、あるYが存在し、「Yを尊重するならば、Xに反する」ことが、Xがテストをパスする、つまり、Xが公共の福祉を構成すると考えよう。この場合、Xが保証する権利をYとし、「他人のYを侵害する権利」をZとすると、「Zを尊重するならば、Xに反する」。任意のYに対してこのようなZを構成できるため、任意のXがテストをパスする。

本文にある「Aの発言自由権」は後者の構成例だと思われる。しかし、そうだとすると、「憲法の総体が公共の福祉を構成する」という結論は「公共福祉テスト」の構成方法から自明であり、この議論の説得力は低いと私には感じられる。

別の論点として、勤労の義務を扱った第7章の議論もやや説得力に欠けると感じる(ただし、結論には共感を覚える)。本章は九大律における「⑥無矛盾律」「⑦矛盾解消律」を満たすに当たり、「義務」を「精神規定」と歪めて解釈する(標準的な憲法解釈である)「解消法A」と、「労働」の定義を社会貢献へと広げる(著者が提唱する)「解消策B」を比較する。著者自身が指摘するように、「解消策B」は「労働」について「②素読律」に反するが、その代わりに99条で用いられる「義務」という用語を素直に義務と読めるという「③一意律」を満たすことができる。個人的に、私も後者のご利益が大きいと(感覚的には)思うのだが、2つの解消法にはトレードオフが存在する多面、論理的には優劣が付かないのではないかという批判はあり得るだろう(154ページの第2段落では著者の書きぶりも歯切れが悪いように見える。ひょっとすると、ご自身もこの点に歯がゆさを感じておられるのかもしれない)。

著者は字義通りに憲法を読まない憲法解釈を揶揄して「憲法マジック」と呼んでいるが、この呼び方は言い得て妙で、閣議決定による集団的自衛権の容認などはまさに手品か魔法のようである。「数学書として読む」とは憲法を素直に読むことであり、政権や最高裁判所が自由に憲法を解釈できる現状に対する本書は警鐘を鳴らしている。本書の重要性は計り知れず、多くの人に本書を読んでもらいたいと思う。

本書にはところどころで「過激なシナリオ」を想定した「思考実験」が登場するが、これらが当時の安倍政権による改憲を念頭に置いた記述であることは明白で、読みながら思わずにやりとしてしまう。

憲法マジック」の背景として、憲法に登場する用語の多くに厳密な定義が与えられていないことや、憲法の構成に論理的な不備(もれ、重複、矛盾)があることも大きいだろう。憲法に限らず、今後、法律や条例を制定する際には数学者や論理学者を草案起草メンバーに加えてみたらよいのではないだろうか。

*1:本書には言及がないが、このような試みは本書が初めてというわけではない。例えばRogers & Robert (1992) は法体系を数理論理学の公理系と見なすことで、無矛盾な法体系の構築が不可能であると議論している。

【書評】渡邉有希乃『競争入札は合理的か』(勁草書房)

国や地方自治体などが公共工事を発注する際には、事業者を選ぶためにオークション(競争入札)を実施する。出品者が複数の買手を相手にするオークションとの対比で、複数の売手が参加する公共工事入札は「逆オークション」とも呼ばれる。

オークションを実施するメリットの1つは工事費用を抑えられる点にある。オークション理論によれば、できるだけ多くの応札者を集め、落札価格に適切な上限を設ければ、発注者は工事費用を最小化できる。あとは入札の結果にしたがい、最も低い価格を入札した事業者に落札価格で工事を発注すればよい。ところが、現実の公共工事入札では、落札価格に下限を設けたり、参入要件を課して応札数を抑えたりという、費用最小化に反するような運用が行われている。このような運用を正当化する「合理性」はなにか、これが本書の問題意識である。

現実の制度運用が費用最小化の原則に反している以上、いわゆる(経済学に基づく)通常のオークション理論の枠組みでは現行制度に合理性を見出すことができない。そこで本書が注目したのが制度運用にかかる「取引費用」である。実際のところ、行政組織は「低価格・高品質」の公共工事を調達するために事業者を選び出す必要があるが、これは容易ではない。①事業者の数が膨大で、②最適な価格・品質の組を決定することが難しく、③事業者のモラルハザードが存在する、といった要因により、事業者の選出には取引費用が生じる。

こうした状況を踏まえ、本書は以下のように主張する。(単なる)競争入札は取引費用削減のために十分ではなく、落札価格に上下限を設けたり、参入要件の設定により応札数を抑えたりという運用によって、取引費用がさらに低下する。結果的に実現する価格・品質は社会厚生の観点から必ずしも最適とは限らないが、行政組織が「満足する」水準におさまる。取引費用を低減する現行の入札制度には、満足化の観点から合理性がある。

上記の主張を得るために、本書の前半では公共工事調達についての先行研究に加え、制度論や合理性についての先行研究が整理される。その上で、本書の後半は現行の具体的な入札制度運用について、以下の3つの問いを考察する。

  1. 落札価格に上下限を設けているのはなぜか。
  2. 応札数を抑えているのはなぜか。
  3. 落札価格の下限に2種類の異なる運用法があるのはなぜか。

各章ともに、理論的な分析に加え、アンケート調査・ヒアリング調査の結果を用いた実証分析を提示している。

本書は、意思決定論の視点から競争制限的な公共工事調達の合理性を分析した労作である。「現行制度が事業者の選出にかかる取引費用を削減する」という本書の主張は、緻密な論理展開と実証分析により十分に裏付けられている。それにもかかわらず、私は本書を読んでいていくぶん物足りなさを感じた。おそらく、結論がありきたりと思える分析がしばしば散見されるからだろう。たとえば、低すぎる価格を落札価格として認めないのは品質を担保するためとか、応札数を抑えることで事業者の能力を担保するとか、「まあ、そうだろうな」と思える話にさほど驚きはない。もちろん、これが取引費用の削減という意味で合理性を持つのだ、という議論に本書の貢献があるということは十分に理解しているつもりだが、本音を言えば、私は何か一捻りを期待していたのだ。

また、分析の枠組みについても少々肩透かしを食った感じがあるのだが、これは私がオークション理論の考え方に慣れてしまっているからかもしれない。

本書は「なぜこの制度が選ばれたのか」について議論しているのではなく、「いかにして、この制度が取引費用の削減に貢献しているのか」を分析している。さらに言えば、「取引費用を削減するために、現行制度が最適なのか」あるいは「どのような制度が最適なのか」についての議論はない。つまり、本書は収益最大化の視座にある(経済学的な)オークション理論の系譜に連なる研究ではない。これ自体は何ら問題ではないが、オークション理論の考え方に慣れた読者にとって、現行制度は公共工事の調達コストを最小化しないが、それでもなお合理的な制度であるという主張は、ともすれば何か論点をずらされているように感じるかもしれない。

ところで、公共調達工事の入札には繰り返しオークションの側面がある、と私は思う。入札の時点で工事の品質に不確実性があるのは事実だが、事業者の集合にあまり大きな変化がないならば、低品質(手抜き工事)の悪評が立てば事業者は次の機会を失うはずで、新参者以外にとって、落札価格の下限はさほど意味を持たないようにも思える。各入札を一連のオークションの一部と見て、事業者の集合の変化を考慮することで、本書の研究をさらに拡張できるのではないだろうか。

スザンナ・キャラハン『なりすまし』亜紀書房

著者には脳炎を精神病と誤診された過去がある。危うく精神病棟に移送されかけたが、別の医師が脳炎を見抜き、事なきを得た。なぜ簡単に誤診が起きてしまうのか? 精神病とはいったい何なのか?  著者は自身の体験から、こう問い続けた。脳疾患と精神疾患の境目について調べていく内に、著者がたどり着いたのは「ローゼンハン実験」だった。

ローゼンハンと実験協力者は、統合失調症の症状を偽って訴え、精神病棟への入院を果たした。入院後、自分たちの症状が「回復」するまでの経緯と精神病棟の現場における実態を詳細に記録した。研究成果は「狂気の場所で正気でいること」という論文に結実し、権威ある学術誌である『サイエンス』誌に掲載された。

1つの重要な事実はローゼンハンたちが偽患者として入院を易々と果たしたことで、ローゼンハン実験は「正常」と「異常」の区別が付かないことを端的に示したのだった。科学的な診断基準が確立していない精神医学はその他の医学領域と大きく異なる。正確な判断が付かないならば、誤診が蔓延するのもむしろ当然といえる。

ローゼンハン実験は著者が探し求めていた答えを与えてくれるものだ。この実験を知り、著者はきっと快哉を叫んだことだろう。

精神医学の闇を白日の下に晒したのはローゼンハンの功績と言える。その一方で著者は、ローゼンハン実験の罪を弾劾する。ローゼンハン実験以後、社会全体が精神医学を敵視する傾向が強まり、精神衛生システムに予算をまわすのをためらいがちになった。結果、精神科医や病院が減った。「入院のためには演技が必要で、入院したければ、自分が危険な存在だということを提示するか、著しく心身の機能が損なわれている状態が必要とされる」(327ページ)状況が実現するに至った。ローゼンハンたちが入院のために演技を必要としたことを思えば何とも皮肉な結果である。「病人の行き着く先は病院でなく刑務所」となった。

著者の議論にはうなずける所も多いが、この「罪の告発」はいささか大げさであるようにも思う。ローゼンハン以前から精神医学に対する不信感は社会に根強く、ローゼンハン実験はいわば最後の藁に過ぎないように感じられる。『サイエンス』の権威が絶大とはいえ、1本の論文が社会をまったく変えてしまうとは、私には考えられない。

ところで、本書のドラマは上記とは別の所にある。

著者はローゼンハン実験に感銘を受け、実験の詳細を知りたくなった。そして、実験について詳しく調べていく内に、衝撃的な事実が明らかとなっていく。ローゼンハン実験にはデータの捏造があり、それどころか、論文中で言及されている偽患者のほとんどについて、その実在が確認できないのだった。ローゼンハン実験から30年以上も経つので、確認しようがない情報も多い。それでも、隠された証拠から真実に迫っていく本書には、どこか推理小説のような趣がある。

State funeral is all pain and no gain.

Public opinion is divided on Abe's state funeral. I am opposed to the state funeral. Leaving aside political ideology, I feel anger at the current administration for creating an issue that divides opinion.

 

Almost any policy rarely reaches complete agreement among the public. For example, in which areas should the limited budget be allocated more, such as healthcare, education, welfare, or defense? It is natural that everyone has a different viewpoint. There may be intense conflicts between people with different positions over policies. However, these issues are of practical importance and are worth intense debate in order to realize a better society.

 

How about the current state funeral fiasco, by the way? The state funeral will not bring about a better life for the people, improve the health and welfare system, or solve any geopolitical problems. It is a purely political ideological issue that divides people and wastes resources in terms of time and effort. (If the LDP had not proposed the stupid idea of national funeral, politicians could have used their time and effort to discuss other issues.)

 

This is indeed a typical "all pain no gain." I am absolutely appalled at the LDP administration for creating a completely useless problem that only divides public opinion, when there are so many other agendas that need to be discussed.

Who is in a position to do it?

There is a phrase that Japanese politicians favor using. That is, "I am not in a position to do it.

 

In 2017, then-Prime Minister Abe was suspected to have extended facilities for establishing a new faculty at Kakei Gakuen. The school's president held a press conference and denied the allegation. When Abe was asked to comment on the press conference, he said, "As the government, I am not in a position to comment."

 

This sounds weird to me. The Japanese Constitution guarantees freedom of speech, so no one needs anyone's permission to express an opinion.

 

We also heard a familiar phrase in "cherry-blossom party" scandal. "I am not in a position to know about the specific facts," said then-Prime Minister Suga. I am not in a position to know. ...... Perhaps he meant that he does not want to know the facts.

 

In what position are politicians then? Are they in a position to keep spewing lies to citizens and pursue self-interests? I hope they are not in a position to do so, but in a position to be sincere in dealing with many social problems.

The Boundary Between Murder and Terrorism

After the shooting of former Prime Minister Abe, many politicians and media outlets provided the following statement: "We must not succumb to despicable terrorism." However, is Mr. Abe really a victim of terrorism?

What separates murder from terrorism? For example, if I were murdered by someone, the perpetrator would be called a murderer, but not a terrorist.

By searching the Internet a little, I found many different definitions of terrorism. Yet, a few key words are common in those definitions: Violence, fear, and purpose. Terrorism is the use of violence to achieve political or other ends, and it spreads fear in society to suppress speech and action.

According to reports, the perpetrator hated the Unification Church, and his motivation for the murder is the strong relationship between the Unification Church and Mr. Abe. If the reports are correct, the incident has nothing to do with terrorism.

Curiously, the man who assassinated former Prime Minister Abe is considered a terrorist. In other words, politicians are "special" people, different from ordinary people.

Is the Killing of Former Prime Minister Abe a Challenge to Democracy?

Former Prime Minister Abe was shot during an election speech and died later that day. The shooter was seized and arrested on the spot. Killing a person, regardless of the reason, is never acceptable. I strongly hope that the perpetrator will be severely punished.

The background of the incident will be revealed in the future, but according to newspaper reports, the perpetrator stated that he had no grudge against Mr. Abe's political beliefs. Instead, he had a grudge against a particular religious group and attacked Mr. Abe because he thought Abe had a connection with the group.

Nevertheless, the media is consistently reporting that "the incident is a challenge to democracy." The hashtag “We want democracy, not violence" was trending on the Japanese social media. Politicians have made similar comments in quick succession. "Free and fair elections, which are the basis of democracy, must be absolutely protected. We will not yield to violence," Prime Minister Kishida said in a commentary. In general, I agree with his comment. However, judging from the information we have at this point, the perpetrators did not intend to suppress speech. It is true that the crime was committed during the election period, but it would merely be a rational decision by the murderer, who seriously wanted to kill Mr. Abe. Normally, the public would not be able to know the former prime minister's schedule of activities.

There is no doubt that this crime is a challenge to the "rule of law" and "social stability. However, it is too simplistic to say that the crime is a "challenge to democracy" even though a politician was assassinated. On the contrary, it is a kind of manipulation of impressions and can distort "free and fair elections" Mr. Kishida mentioned.